第6話 世界から消えた物語

その街は――

もはや、俺の知っている街ではなかった。

東京の中心に立ち並んでいた高層ビル群は、骨が折れたかのように歪み、いくつもの建物が半壊している。道路は瓦礫で埋め尽くされ、割れたガラスが、俺たちの足元でカラカラと音を立てた。

看板は斜めにぶら下がり、デジタルスクリーンは沈黙したまま、二度と誰にも見られることのない最後の広告を映し出している。

人影はない。

車の音もない。

あるのは――

風の音だけ。

そして、まだ消えきらない焦げた匂い。

俺とアカネは、ほとんど言葉を交わさず、並んで歩いていた。

時折、遠くから音が聞こえる。建物が崩れる音なのか、それとも何かが動いている音なのか。

確かめることはしなかった。

この世界は、もう十分すぎるほど、状況を物語っていたからだ。

「……日本だな」

俺が小さく呟く。

「漫画じゃ、初日に壊滅してた街だ」

アカネは周囲を見渡しながら言った。

「そして今、私たちはその中を歩いてる」 「読者としてじゃなく、ね」

二人で立ち止まったのは、二階建ての建物の前だった。

看板はひび割れていたが、文字はまだ読める。

――書店。

正面のガラスは割れ、店内の棚は倒れ、無数の本が嵐の後の落ち葉のように散乱している。

「……入ろう」

俺が言うと、アカネは静かに頷いた。

中は、異様だった。

静かすぎる。

俺は倒れた本棚の間を歩き、辛うじて読めるタイトルを目で追った。

小説。雑誌。漫画――

そして、そこで俺は、それを見つけた。

見覚えがありすぎる表紙の漫画の山。

――『エスカトン・クロニクル』。

心臓が、強く脈打つ。

「……ありえない……」

しゃがみ込み、一冊を手に取る。

タイトル、デザイン、角の小さな折れ目まで、記憶と完全に一致していた。

震える手でページを開く。

最初のページ――

真っ白。

コマもない。

台詞もない。

絵すらない。

次のページ。

白。

その次も。

白。

全ページ――

空白だった。

「……なんだ、これ……」

別の巻を開く。

同じだ。

そこにある漫画はすべて――

中身のない、表紙だけの本だった。

隣に立ったアカネが、静かに言う。

「火事で焼けたわけじゃない」 「紙は無傷よ」

俺は荒い息を吐きながら立ち上がった。

「……意味が分からない……」

スマホを取り出し、指を走らせる。

検索。

エスカトン・クロニクル 漫画

――結果なし。

通販サイト。

――該当なし。

Web漫画。

フォーラム。

アーカイブ。

どこにもない。

まるで――

最初から存在しなかったかのように。

「……つまり、こういうことね」

アカネが静かに言った。

俺は顔を上げる。

「この世界が“物語”になったのなら」 「元の物語の存在は……もう必要ないのかもしれない」

胸を殴られたような感覚がした。

「……俺は、その漫画を中一の頃から読んでた」

声が、かすれる。

「毎週、何年も」

帰り道。

狭い自分の部屋。

机のスタンドライト。

フィクションだと思っていた破滅の光景を、何度もページ越しに見てきた。

「最後まで追い続けた、唯一の作品だった」 「最終回の台詞だって覚えてる」

拳を握りしめる。

「なのに……世界は存在してるのに、物語だけが消えた」

アカネは答えなかった。

だが、その視線が変わる。

――直後。

ドン。

重い衝撃が床を揺らした。

背後の本棚が完全に崩れ落ち、埃が舞い上がる。

アカネが即座に俺を引き寄せた。

「神崎くん」

それは警告ではなかった。

確認だった。

俺は書店の入口を見る。

外の光を覆い隠す、巨大な影。

ゆっくりと――

何かが中へ入ってくる。

不安定な形状。

骨とインクが混ざり合ったような身体。

その胸に刻まれた紋章――見間違えるはずがない。

「……そんな……」

【シナリオ存在を検知】

グレイブ・ヘラルド ― 中級初期

『エスカトン・クロニクル』では、

もっと先に登場するはずの怪物。

アカネが短剣を構える。

「知ってるのね」

「……ああ」 「そして、ここにいるはずがない」

グレイブ・ヘラルドは、胸の奥から鐘を打つような重い音を響かせた。

もし原作が消えているのに、

こいつが存在しているなら――

可能性は一つしかない。

この物語は、

もう誰の台本にも従っていない。

そして俺たちは――

俺が読んだことのない領域に、足を踏み入れた。

グレイブ・ヘラルドが、完全に書店へ入ってくる。

一歩ごとに床が軋み、本棚が震え、この存在を拒絶しているかのようだった。

身長は二メートルを超え、乾いたインクのような黒い外殻がひび割れている。

その隙間から、灰色の骨格が覗いていた。

胸には、逆さまの砂時計のような紋章。

大量死を告げる印。

「……グレイブ・ヘラルド」

自分の声が、他人のものみたいに聞こえる。

漫画では、こいつは“死のフェーズ”を運ぶ存在だ。

自ら暴れない。

刻印し、あとは死が訪れるのを待つだけ。

“直接殺す必要のない怪物”。

アカネが半歩前に出る。

「手短に説明して」 「何をする存在?」

「……エリアを、刻印する」 「その中にいる人間は……時間内に死ぬ」

答えるように、グレイブ・ヘラルドが腕を上げた。

空気が重くなる。

床に散らばる白紙の本が震える。

【システム警告】

一時的死のゾーンが展開されました

視界の端に、カウントダウン。

05:00

「……五分」

「時間切れになると?」

「……このゾーン内の全員が死ぬ」

泣いても。

隠れても。

祈っても。

アカネが短く息を吐く。

「分かった」 「なら、時間内に倒せばいい」

簡単に言うが――

漫画では、こいつは通常の攻撃では倒せない。

グレイブ・ヘラルドが動く。

速くはない。

だが、一歩ごとに距離の概念が歪む。

アカネが短剣を投げた。

――ギン!

肩を貫く。

血は出ない。

反応もない。

ただ、虫を見るように、わずかに首を傾けただけ。

「……効いてない」

俺は《未記述の叙述書》を開いた。

半ば必死で書き込む。

――「グレイブ・ヘラルドは、時間の紋章を破壊されると弱体化する」

インクが脈打つ。

ページが熱を帯びる。

【警告】

未検証のナラティブ

効果確率:低

「……くそ」

思い出した。

あの紋章は、専用のアーティファクトでしか壊せない。

それは、まだ先の話だ。

「冬月さん!」 「正面からは無理だ!」

再び腕が上がる。

棚が崩れ、圧力が胸を押し潰す。

04:12

アカネがレジ台を蹴り飛ばす。

触れる前に砕け散る。

「なら」 「代案を出して」

考えろ。

読者として。

キャラじゃなく。

漫画に――

小さな描写があった。

グレイブ・ヘラルドは、

死の記録を読む者を直接殺さない。

刻印するだけだ。

そして――

誰かが、それを欺いた。

「冬月さん!」 「ゾーンから出る! でも、出口はドアじゃない!」

「は?」

床を指差す。

「地下だ!」 「死のゾーンは水平展開で、垂直じゃない!」

アカネが即行動する。

傷んだ床板を蹴り破る。

――バキッ!

穴が開く。

グレイブ・ヘラルドが震えた。

初めての反応。

鐘のような唸り声。

02:58

「神崎くん、今!」

俺が飛び込み、アカネが続く。

黒い気配が頭上を掠める。

地下室。

暗く、埃っぽく、静か――

その静寂が、破られる。

グレイブ・ヘラルドが床を突き破ってくる。

「……自分のルールを破った……」

原作にはない。

完全な逸脱。

アカネが前に立つ。

「神崎くん」 「その物語が通用しないなら――」

真っ直ぐに見る。

「――新しく書けばいい」

俺は本を握り締めた。

ならば。

古い物語が死んだのなら――

書くしかない。

――「グレイブ・ヘラルドは、観測者を例外として認識する」

ページが、ひび割れる。

【重大警告】

高位ナラティブ介入

結果不明

胸の紋章が点滅する。

タイマーが止まった。

00:47

動きを止め、こちらを見る。

初めて――

俺は理解した。

それが俺を見ている。

獲物でも。

登場人物でもなく。

“存在してはいけない者”として。

アカネが息を呑む。

「……神崎くん」

「冬月さん」 「もし、これを生き延びたら――」

怪物を見る。

「――この世界は、もう元には戻らない」

そして分かった。

俺はもう、破滅を読む側じゃない。

俺は――

この物語のバグだ。

――つづく

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物語を知る者だけが、生き残れる (Only Those Who Know the Story Will Survive) Mas Amba @Tsukishima_amba

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