第2話 物語を覚えている者と、覚えていない者
「神様……どうか、助けてください……」
一人の女性が、車両の床に膝をついていた。
両手でロザリオを握りしめ、唇を震わせながら祈り続けている。
まるで、この鉄の箱の天井が天と繋がっているとでも信じるように。
泣く者がいる。
叫ぶ者がいる。
ただ、現実を拒絶するように虚空を見つめる者もいる。
――インク・レイスが、再び動いた。
身体が引き延ばされた影のように歪み、
非常扉の近くにいた男を引き裂く。
バシャッ――
血が壁に飛び散る。
「ぎゃあああああ!!」
……もう、黙っていられなかった。
このまま原作通りに進めば、
時間が経つほど死者は増える。
俺は、深く息を吸い込んだ。
「――みんな、聞け!!」
悲鳴の渦の中で、声を張り上げる。
何人かがこちらを見た。
縋るような目。
苛立ちと恐怖が混じった目。
「ふざけるな!!」
「相手は化け物だぞ!!」
「戦えるわけないだろ!!」
……知っている。
漫画でも、ほぼ同じ反応だった。
「殺せる!!」
俺は叫んだ。
「そいつは神じゃない!
後ろ首に“核”がある!!」
一瞬の沈黙。
そして――乾いた笑い。
「後ろ首だぁ?」
「素手でどうやれってんだ」
「映画じゃねえんだぞ!!」
インク・レイスが、ぐつぐつと煮えた液体のような音を立てる。
嘲笑っているようだった。
俺は歯を食いしばる。
「いいか!!
横からの攻撃には反応が遅い!
硬いもので、集中して叩け!!」
棚、消火器、吊り革。
使えるものを指差す。
「一人が囮になって、もう一人が――」
「無理だ!!」
スーツ姿の男が、頭を抱えて叫んだ。
「死ねって言うのか!?」
……その言葉に、俺は言葉を失った。
原作でも、ここで誰も動かなかった。
結果――
六人が、意味もなく死んだ。
インク・レイスが、こちらへ進む。
距離は、あと数メートル。
冷気が、骨の奥まで染み込んでくる。
まるでインクが血管を流れてくるような感覚。
「……くそ……」
誰も動かないなら――
俺がやるしかない。
吊り革の金属棒を掴む。
冷たい。
手が震えるが、思考は不思議なほど澄んでいた。
――原作17話目。
主人公は、ここで躊躇した。
俺は、しない。
一歩、踏み出した――
その時。
「その人の指示通りに動いて」
女の声。
落ち着いている。
冷静で、芯がある。
全員が振り向いた。
連結部の近くに、一人の女性が立っていた。
漆黒のボブヘア。
きっちり整えられた前髪。
灰紫色の瞳が、インク・レイスを真っ直ぐ射抜いている。
恐怖は、ない。
白いシャツに黒いネクタイ。
その上に、襟の広い黒いコート。
――あまりにも、場違いなほど冷静だ。
まるで、
事件現場に立つ捜査官のように。
「……信じるのか?」
誰かが震える声で聞いた。
彼女は振り返らない。
「信じる信じないの問題じゃない」
声は、淡々としていた。
「説明は筋が通ってる。
それに、今の状況で他に選択肢ある?」
インク・レイスが、低く唸る。
彼女は一歩、前へ出た。
「私が囮になる」
さらりと言う。
「その間に、横から叩いて。
狙いは後ろ首」
――全員が、固まった。
俺は、彼女を見つめた。
原作に、
こんな女はいない。
存在しないはずの人物。
視線が、一瞬だけ交わる。
その瞬間――
俺は理解した。
インク・レイスより、
もっと危険な存在が現れたことを。
物語を変えられる人間。
インク・レイスが、跳んだ。
身体が液体の影のように伸びる。
空気が、ギシッと歪む。
「――こっち」
彼女は叫ばない。
床に消火器を叩きつけた。
ガンッ!!
金属音。
原作通りだ。
この怪物は、急激な音と動きに過敏。
インク・レイスが、そちらを向く。
――隙。
「今」
短い合図。
俺は、走った。
心臓が爆発しそうだ。
原作では、
主人公はここで躊躇する。
……俺は、違う。
跳んだ。
「うおおおお!!」
金属棒を、後ろ首へ。
バキッ――!!
骨でも金属でもない、
何かが内部で砕ける音。
インク・レイスが、悲鳴を上げる。
バシャッ、と黒い液体が天井に飛び散る。
……だが。
終わらない。
「くっ――!」
弾き飛ばされ、床に転がる。
肩に激痛。
「まだ!」
彼女が叫ぶ。
棚を蹴り倒し、
怪物の進路を塞ぐ。
――一歩、下がった。
その一歩が、すべてだった。
俺は立ち上がり、
再び金属棒を振り上げる。
原作23話。
二撃目。
決定打。
全体重を乗せて――
ドンッ!!
核が砕けた。
インク・レイスは、動きを止めた。
身体が崩れ、
黒い水溜まりとなって、
やがて煙のように消えていく。
――静寂。
悲鳴が、止まる。
「……倒した?」
「……勝ったのか?」
誰かが、バッグを落とした音がした。
泣き崩れる者たち。
恐怖ではない。
生き残ったことへの涙。
俺は、膝に手をついた。
「はぁ……はぁ……」
……生きている。
本当に、
物語の怪物を倒した。
彼女が、近づいてくる。
まるで、日常の仕事を終えたかのような足取り。
消えゆく黒い染みを見下ろし、
俺を見る。
「いい根性してる」
タメ口だった。
「普通、あの状況じゃ動けない」
「……あ、ありがとう」
喉が渇いて、声がかすれる。
彼女は軽く頷いた。
「冬月アカネ」
一拍置いて。
「あなたは?」
俺は、顔を上げる。
「神崎レイト」
その名前が、
少しだけ違って聞こえた。
――まるで、
書き直された登場人物名のように。
車内灯が、何事もなかったかのように戻る。
追加のアナウンスはない。
世界は、何も起きなかったふりをしている。
電車は、走り続ける。
次の駅へ。
……でも、俺は知っている。
降りた瞬間から、
物語は本番だ。
横目で、アカネを見る。
彼女は、俺の知るキャラクターじゃない。
つまり――
この物語は、
もう原作通りじゃない。
そして、なぜか確信していた。
変化は、今始まったばかりだ。
――つづく
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