物語を知る者だけが、生き残れる (Only Those Who Know the Story Will Survive)

Mas Amba

第1話 この世界は、ただの物語のはずだった

 俺の名前は神崎レイト。

 二十七歳。

 特別な才能も、夢も、野心もない。

 どこにでもいる、ただの会社員だ。

 そんな俺が唯一、長年続けてきた習慣がある。

 それが――漫画を読むことだった。

 タイトルは

『エスカトン・クロニクル』。

 世界の崩壊。

 超常の怪物。

 そして、理不尽な死。

 人類が、あまりにもあっさりと踏みにじられていく物語だ。

 正直、怖い。

 胸が締め付けられる。

 それでも、なぜか目を離せなかった。

 面白い。

 間違いなく、名作だと思っていた。

 だが、その漫画は――

 第520話・第52巻で完結した。

 最終話のラストは、ひどく静かだった。

 崩れかけた都市。

 半壊したビル群。

 太陽のない、灰色の空。

 そして、ページの片隅に添えられたナレーション。

「物語が終わっても、世界は元に戻らなかった」

 それを読んだ瞬間、

 俺は――泣いた。

 この漫画は、

 高校一年の頃から読み続けていた。

 気づけば十二年。

 俺が二十七歳になるまで、ずっと。

 漫画が終わった翌日から、

 人生が一気に空虚になった。

 高校時代、

 不良にからかわれて、

 友達もいなかった頃。

 大学に入っても、

 社会人になっても。

 俺はずっと

『エスカトン・クロニクル』を読んでいた。

 それだけが、

 俺の世界だった。

「……なんなんだよ、この人生」

 小さく、悪態をつく。

 この漫画は、決して有名じゃない。

 知っている人も、ほんの一握りだ。

 理解できなかった。

 なぜ、

 異世界転生でハーレムだの、

 最初からチート能力だの、

 そういう話ばかりが評価されるのか。

 俺には、わからなかった。

 仕事を終え、帰宅途中。

 明日は休日。

「……久しぶりに、最初から読み直すか」

 そんな軽い気持ちで、俺は電車に乗っていた。

 ふと、思う。

 ――もし、

 この世界が、

 あの漫画みたいだったら。

 もちろん、冗談だ。

 現実なわけがない。

 ……そのはずだった。

 18時42分。

 車内は、疲れ切った社会人で満ちていた。

 安いコーヒーの匂い。

 よれたスーツ。

 慣れきった絶望。

 そのとき――

《第一のシナリオを開始します》

 それは、

 車内アナウンスではなかった。

 音ではない。

 直接――脳に響いた。

 全員が、凍りつく。

「……え? 今の、何?」

「ドッキリ?」

「誰かの冗談だろ?」

 俺は、何も言わなかった。

 ――知っていたからだ。

 この声を。

 何百回も、読んだ。

【シナリオ1:適格証明】

制限時間内に、

シナリオ存在を一体排除してください。

報酬:生存権の付与

失敗:物語からの削除

失敗した場合、対象者は排除されます。

 手が、震える。

「……ありえない」

 これは夢じゃない。

 幻覚でもない。

 これは――

『エスカトン・クロニクル』の、最初のページだ。

 あの漫画では、

 最初の一時間で人類の73%が死亡した。

 そして――

 俺は、

 その中に含まれるはずの存在だった。

 悲鳴が上がる。

 車両の端に、

“それ”が現れた。

 人間じゃない。

 動物でもない。

 黒いインクが漏れ出したような体。

 歪んだ顔。

 裂けすぎた口。

 ――インク・レイス。

 低級個体。

 物語最初に現れる怪物。

 俺は知っている。

 能力も、弱点も。

 そして――

 この車両で、

 誰が、どう死ぬのかも。

 最悪なのは――

 それを、止められないことだ。

「離れろ! そいつに近づくな!!」

 俺は叫んだ。

「誰だよ、お前!」

「知ったかぶりすんな!」

 視線が突き刺さる。

 だが、その直後――

 俺の頭の中に、別の文字が浮かんだ。

【特殊条件を検知】

『終焉を見届けた読者』

 一時的な特権を付与します。

 喉が鳴る。

「……俺は、ただのNPCじゃない」

 生まれて初めて――

 俺は、物語の中に立っていた。

 しかも今回は、

 原作通りに進む気はない。

 ――漫画では、この場面は淡々としていた。

 白黒のパネル。

 電車。

 黒い怪物。

 血。

 説明も、感情もない。

 ただ、小さなキャプションだけ。

「この日、人類は安全である権利を失った」

 当時の俺は、

 ベッドで寝転びながら読んでいた。

 あくびをしながら。

「えぐい導入だな」

 そう思っただけだった。

 今――

 俺は、その“コマ”の中にいる。

 最初の悲鳴が響いた。

「きゃあああああ!!」

 インク・レイスが動く。

 粘性のある液体が、無理やり人型を保っている。

 床に、黒い染みが残る。

 現実そのものが、汚染されているかのようだ。

 逃げ遅れた中年男性。

 伸ばされた手。

 助けを求める口。

 ――次の瞬間。

 胸を、貫かれた。

 噛みつくでも、引き裂くでもない。

 体内から溶ける。

 黒いインクに変わり、崩れ落ちる。

 俺は、吐いた。

「……う、え……」

 金属と焦げた臭い。

 これは――

 絵じゃない。

 イラストじゃない。

 現実だ。

「逃げろ!!」

「ドアを開けろ!!」

「押すな!!」

 パニックが、燃え広がる。

 倫理も、法律も、意味を失う。

 あるのは一つ。

 生きるか、死ぬか。

 インク・レイスは、それを好む。

 恐怖と絶望――

 それが、餌だ。

 この車両は、

 まさに楽園だった。

 ――斬撃。

 女性が、真っ二つになる。

 血とインクが、壁を染める。

 足が、動かない。

「……これは……物語のはずだ……」

 震えが止まらない。

 俺は、知っている。

 三分以内に、

 この車両で十四人が死ぬ。

 そして――

 俺は、どのコマにも登場しない。

 インク・レイスが、こちらを向く。

 目はない。

 表情もない。

 それでも――

 わかる。

 認識された。

【インク・レイス/低級】

 初期ナラティブ存在

 脅威度:低

 弱点:インク核(首の後部)

 文字が、空中に浮かぶ。

 頭が割れそうだ。

 記憶が溢れる。

 コマ。

 台詞。

 死。

 ――傘で立ち向かって死んだ高校生。

 ――「夢だ」と叫んで消えた会社員。

 そして、忘れられない一文。

「彼らは愚かだったのではない。

 物語を知らなかっただけだ」

 乾いた笑いが漏れる。

「……クソが……」

 涙が、止まらない。

「これが……

 読者が物語に入った側の景色か……」

 インク・レイスが近づく。

 一歩。

 二歩。

 わかっている。

 今、動かなければ――

 俺は、

 名前もない死体になる。

 意味も、価値もない。

 俺は、拳を握った。

「……違う」

 小さく、しかし確かに。

「俺は――この物語を知っている」

 その瞬間。

 俺は、

 観客であることをやめた。

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