第10話 無保険の代償


 季節は冬を迎えようとしていた。


 北風が吹きすさぶ建設現場で、一人の男が泥にまみれて土砂を運んでいる。


「おい達也! 手が止まってんぞ! さっさと運べ!」


「は、はい……すいません……」


 現場監督の怒号に、達也は力なく返事をした。  かつての威勢の良さはどこにもない。


 作業着は薄汚れ、腰痛と疲労で体は悲鳴を上げている。  だが、休むことは許されない。


 あの事故から半年。達也の人生は一変した。    ベンツの修理費、信号機の賠償、レッカー代。  総額は1600万円を超えた。


 当然、親戚中に頭を下げて金を借りようとしたが、「DVと借金まみれの男」に金を貸す者などいなかった。


 結局、高金利のローンを組み、給料のほとんどを返済に充てる生活が始まった。


 愛車だった改造車はスクラップになった。  ローンだけが残り、車はない。


 家賃の安いボロアパートに引っ越し、夜は警備員、昼は現場仕事の掛け持ち。  食事は半額シールの貼られたコンビニ弁当のみ。


 休憩中、達也は道路を走るスポーツカーを目で追った。


「……なんでだよ」


 乾いた唇から、独り言が漏れる。


「たった10万だぞ……。あの時、保険さえ更新してれば……」


 もしあの時、美咲を蹴り飛ばさずに10万円を払っていれば。  保険が下りて、賠償金はゼロだったはずだ。  家も、車も、家族も失わずに済んだはずだ。


 『俺の運転なら事故らない』  『保険なんて無駄金だ』


 過去の自分の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。


 その「無駄金」をケチった代償が、この1600万円の借金と、孤独な生涯だ。


「おい達也! 休憩終わりだ!」


「……はい」


 達也は重い体を引きずって立ち上がった。  彼の地獄は、完済するまで――おそらく数十年先まで終わらない。


 ◇


 一方その頃。  私は、新しいアパートの日当たりの良いリビングにいた。


「ママ、見て! テスト100点だったよ!」


「すごいじゃない、結衣! 今日はハンバーグにしようか」


「やったー!」


 学校から帰ってきた結衣が、満面の笑みで抱きついてくる。  その笑顔には、かつて父親の顔色を伺っていた時の陰りはない。


 離婚は無事に成立した。  公正証書も作成し、給与差し押さえの手続きも完了しているため、達也からの養育費は今のところ振り込まれている。


 もちろん、それが途絶えたとしても生きていけるよう、私は資格の勉強をして正社員の事務職に就くことができた。


 私はキッチンでコーヒーを淹れながら、ふと通帳を開いた。


 そこには、あの時のへそくり「10万円」を元手に、少しずつ増えていく数字が記されている。


 あの日、達也が奪った10万円は、彼を破滅させる毒薬になった。


 けれど、私が守り抜いた10万円は、私と娘の新生活を始めるための「種」になった。


 お金は、使い方次第だ。


 そして「保険」とは、単なるお金の契約ではない。  大切な人を守ろうとする「心」そのものなのだ。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴る。ネットで注文していた新しい靴が届いたようだ。  達也がいた頃は、自分の靴一足買うのにも許可が必要だった。


 でも今は違う。


「はーい、今出ます」


 私は軽やかな足取りで玄関へ向かう。  窓の外には、突き抜けるような青空が広がっていた。


 もう、雨は降らない。


 私の人生のハンドルを握るのは、私自身だ。


 安全運転で、どこまでも遠くへ行こう。  無保険の代償を払い続ける彼を、バックミラーの彼方に置き去りにして。


(完)

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「俺の運転テクなら事故らない」と保険解約を強要した夫、高級車に追突。無保険の事実に絶望する彼を、私はバックミラー越しに笑って捨てた 品川太朗 @sinagawa

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