第9話 最後の一押し


 実家に戻ってから数週間。


 私の生活は劇的に変わった。  深夜の爆音に怯えることもない。  怒鳴り声に肩をすくめることもない。


 娘の結衣も、初めは環境の変化に戸惑っていたが、今では祖父母に甘え、本来の子供らしい笑顔を見せるようになっていた。


 そんな穏やかな日々に、一本の電話が入る。  私の代理人をお願いしている、高山弁護士からだ。


『美咲さん。夫の達也さんが、どうしても一度直接話がしたいと懇願しています。本来なら拒否できますが……一度会って「現実」を突きつけた方が早いかもしれません。どうしますか?』


 私は少し考え、答えた。


「分かりました。会いに行きます」と。


 ◇


 指定されたのは、高山法律事務所の会議室。


 ドアを開けると、そこには別人のようにやつれた達也が座っていた。  頬はこけ、目は落ちくぼみ、自慢だった茶髪は脂ぎって乱れている。


 あの覇気は見る影もない。


「……美咲」


 私が入室すると、達也は縋るような目でこちらを見た。


「よかった、来てくれたのか……! なあ美咲、帰ってきてくれよ。俺が悪かった。反省してる。だから……」


「座ってください」


 高山弁護士が冷たく促す。  私は達也と視線を合わせず、対面の席に座った。


「単刀直入に申し上げます。美咲さんは離婚を求めています。条件は、親権は美咲さん。慰謝料300万円。そして養育費として月5万円の支払い。以上です」


 弁護士が書類を差し出すと、達也はガタガタと震えだした。


「ふ、ふざけるな! 300万!? 払えるわけねえだろ!」


「払えますよ。あなたは正社員として勤務していますし、ボーナスもある。給与の差し押さえ手続きも視野に入れています」


「無理だ! 今、俺がどういう状況か知ってんだろ!? ベンツの修理費と信号機の賠償で1500万だぞ!? 借金して払うしかないんだ! その上、慰謝料なんて払えるか!」


 達也はバン、と机を叩いた。


「大体な、美咲にも責任があるんだ! 妻なら夫の危機を助けるのが義務だろ!? お前のへそくりがあるのは知ってんだ! それをこっちの賠償に回せ! そうすりゃ離婚は考えてやってもいい!」


 どこまでも身勝手な言い分。  私はため息をつき、持参した黒いファイル――『Xデー・ファイル』を開いた。


「……達也。あなた、何か勘違いしてない?」


「あ?」


「私が求めているのは、協議離婚じゃないの。あなたが合意しなくても、裁判になれば私は100%勝てる。これはそのための『最後通告』よ」


 私はファイルから、数枚の資料を取り出してテーブルに並べた。


 一枚目は、3年前の整形外科の診断書。  二枚目は、ボイスレコーダーの書き起こし記録。  三枚目は、違法改造車の写真。


「な、なんだこれは……」


「3年前、あなたが私を蹴り飛ばして10万円を奪った日の診断書よ」


 私は、達也の目が動揺で泳ぐのを逃さなかった。


「肋骨骨折、全治三週間。これはただの夫婦喧嘩じゃない。立派な刑事事件よ」


「だ、だが3年も前のことだぞ! 時効だろ、そんなの!」


 達也がすがるように叫ぶ。私は冷ややかな笑みを浮かべた。


「残念だったわね。怪我がある以上、これは『傷害罪』になるの」


 私はテーブルの上の診断書を、指先でトントンと叩いた。


「傷害罪の時効は10年。まだまだ、たっぷりと期間は残っているわ」


 達也の顔色が、白紙のように抜け落ちた。


「それに、この音声データ。再生しましょうか?」


 私がスマホを操作すると、あの日の彼の声が会議室に響き渡った。


『俺が事故るわけねえだろ』 『保険なんて不要なんだよ。金をドブに捨てるようなもんだ』


 自分の声を聞かされ、達也はパクパクと口を開閉させた。


「あなたは明確に、自分の意思で保険加入を拒否した。そして更新料を暴力で奪った。私に管理責任はない。これを裁判所に提出すれば、裁判官はどう判断するかしら?」


 高山弁護士が追撃する。


「この証拠があれば、慰謝料の増額は確実です。刑事告発も含めて徹底的にやりますよ。どうしますか?」


 達也は椅子から崩れ落ちるように項垂(うなだ)れた。


 借金1500万。DVの訴追。違法改造の追及。  逃げ場はどこにもなかった。


「……なんでだよ」


 達也が絞り出すような声で言った。


「3年間……ずっと黙ってたのか。俺が調子に乗ってるのを、笑って見てたのかよ……」


「ええ、見てたわ」


 私は彼を見下ろして言った。


「あなたが新しいパーツを買って喜んでいる時も、車検を誤魔化して得意気な顔をしている時も。私はずっと、このファイルに紙を一枚ずつ挟んでいった。いつか来るこの日のために」


「ひどいじゃねえか……家族だろ……」


「家族を守らなかったのは、あなたよ」


 私は立ち上がった。


「この離婚届にサインして。そうすれば、暴行の件だけは警察に出さないでいてあげる。それが私からの、最後の手切れ金代わりよ」


 達也は震える手でペンを握った。


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼は自分の人生の終了届にサインをした。


 記入が終わると、私は用紙を回収し、高山弁護士に一礼した。


「行こう、美咲!」 「待ってくれ!」


 背後で達也が叫んだが、私は一度も振り返らなかった。


 会議室のドアが閉まる音は、まるで重たい鎖が断ち切られる音のように、私の耳に心地よく響いた

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