第8話 崩壊の始まり


 通話を切った後、私はすぐに動き出した。


 感傷に浸っている暇はない。  達也が警察での聴取や現場検証で拘束されている今こそが、最大のチャンスだ。


「結衣、準備できた?」


「うん、できたよ」


 リュックを背負った娘が頷く。


 私は事前にまとめておいた段ボール箱を、手配していた引越し業者のトラックへ次々と運び込ませた。


 「夫のDVから逃げるための緊急避難」という事情を話してあるため、作業員の方々も無言で、かつ迅速に作業を進めてくれる。


 必要な家財道具、衣類、そして私のへそくりと通帳。  思い出の品は少ない。この家にあったのは、辛い記憶ばかりだから。


 作業開始から1時間もしないうちに、家の中はもぬけの殻になった。


 残されたのは、達也の趣味のガラクタと、散らかった服だけ。


 その時、私のスマホが鳴った。  達也からではない。警察署からだ。


「はい、もしもし」


『あ、〇〇警察署の交通課ですが……美咲さんの携帯で間違いないでしょうか? ご主人の達也さんが事故を起こされまして』


 警察官の声は、どこか同情的でありながらも、困惑の色を隠せていなかった。


『幸い、相手の方もご主人も命に別状はありません。ですが……その、ご主人の車のことで』


「保険に入っていないことですよね?」


『ええ……ご主人は「妻が勝手に解約した! 俺は知らなかった!」と喚いておられまして……』


 予想通りの責任転嫁。私は鼻で笑いそうになるのを堪え、冷静に切り返した。


「刑事さん。私は3年間、何度も彼に保険の必要性を訴えました。ですが彼は『俺の運転なら事故らない』と言って、私から暴力を振るってまで保険料を奪い取ったんです」


『暴力……ですか』


「はい。その時の診断書も、彼が『保険は不要だ』と豪語している録音データもあります。全て弁護士に提出済みです」


 私が淡々と事実を告げると、警察官は息を飲んだようだった。


『……なるほど、事情は分かりました。それと、もう一点。車両についてですが』


「違法改造ですよね?」


『はい。現場の隊員が見ただけで分かるレベルの整備不良です。タイヤ、マフラー、車高……全て道路交通法違反です。車検ステッカーは貼ってありましたが、この状態で正規の車検が通るとは到底思えません』


 詰んだ。  完全に詰んだ。


『現在、不正車検の疑いも含めて捜査に切り替える方針です。ご主人は今、真っ青になって震えていますが……奥様、身元引受人として署に来ていただけますか?』


 私は窓の外、雨上がりの空を見上げた。


「いいえ、行きません」


『え?』


「私はこの電話をもって、彼との別居を開始します。弁護士を通じて離婚協議に入りますので、彼には『自分でなんとかしてください』とお伝えください」


『は、はあ……』


 警察官の困惑した返事を聞き届け、私は電話を切った。


 ◇


 後から弁護士の先生に聞いた話だが、その後の達也の状況は悲惨を極めたらしい。


 まず、事故の相手であるベンツのオーナーは、地元でも有名な強面の資産家だったそうだ。


 「誠意を見せろ」と詰め寄る相手に対し、達也は保険がないことを告白。  相手は激怒し、「修理費だけでなく、代車費用、積荷の損害、精神的苦痛まで徹底的に請求する」と宣言したという。


 ベンツの修理費だけで数百万。なぎ倒した信号機の復旧費用。レッカー代。  総額は一千万を優に超えるだろう。


 さらに、警察の追及も厳しかった。  違法改造が発覚したことで、達也は頼みの綱だった裏車検の整備士「コーちゃん」に電話したらしい。


 しかし――


『あぁ? 事故った? 警察? ……ふざけんな、俺の名前出すんじゃねえぞ! 俺は知らねえ! お前が勝手に改造したんだろ!』


 ガチャリ。ツーツー……。


 当然のように切り捨てられたそうだ。


 夕方、私が実家に着く頃、達也から大量のメッセージが届き始めた。


『どこだ!? 家に誰もいないぞ!』 『警察から帰されたけど、車没収された!』 『相手の保険屋から電話かかってきてヤバイんだ! 金払えって言われてる!』 『おい無視すんな! お前の貯金あるだろ!? それで一旦立て替えろ!』 『俺を見捨てるのか!? 家族だろ!?』


 画面を埋め尽くす身勝手な文字の羅列。  私はそれを無表情でスクロールし、最後に一通だけ返信を送った。


『弁護士に委任しました。以降、私への直接の連絡は禁止です。事務的な連絡はすべて代理人を通してください』


 そして、着信拒否設定をオンにした。  スマホが震えるのを止めた。


 私は深く息を吐き、隣で眠ってしまった結衣の寝顔を見た。


「……終わったね」


 いいえ、彼にとってはこれからが本当の地獄。


 借金、損害賠償、刑事罰、そして孤独。  3年間、彼が積み上げてきた「業」が、雪崩のように彼を押しつぶし始めていた。

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