第7話 無保険の事実
『み、美咲ッ!? た、助けてくれ!!』
スマホのスピーカーから、達也の絶叫が響いた。 私は冷静に、キッチンの椅子に座り直した。手元のコーヒーはまだ温かい。
「どうしたの? そんなに慌てて」
『事故った! 俺の車が……クソッ、全損だ! タイヤが滑って制御不能になって……』
予想通りだ。 雨の日に、溝のないタイヤで飛ばせばそうなる。
「体は? 怪我はないの?」
『俺は軽いムチ打ちくらいだ! それより車だよ! あと……相手がヤバイんだよ!』
達也の声が震えている。恐怖と焦燥が入り混じった、情けない声。
『信号待ちしてたベンツに突っ込んじまった……! それも新型のSクラスだぞ!? 相手の車、リアがぐしゃぐしゃだ……おまけに勢いで信号機の柱までなぎ倒しちまった!』
高級車への追突。さらに信号機の破壊。 修理費と賠償金だけで、軽く一千万円は超えるコースだ。
『相手の運転手が降りてきてめちゃくちゃ怒鳴ってる! 警察ももうすぐ来る! おい美咲、早く保険屋に電話してくれ!』
達也は喚き散らした。
『ロードサービスと、対物賠償の手配だ! あーくそ、等級下がっちまうな。まぁいい、早く連絡しろ! 証券番号わかるだろ!?』
まだ、気づいていない。 この期に及んで、自分が「守られている」と信じている。
私は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。 3年間の鬱屈した思いを、この一言に乗せるために。
「……ねえ、達也」
『あぁ!? 何やってんだ、早く電話しろよ!』
「どこの保険会社に電話すればいいの?」
私の問いに、一瞬の間が空いた。
『はあ? お前が管理してんだろ! いつものところだよ!』
「いつものところなんて、ないわよ」
私は静かに告げた。
『……な、何言ってんだ?』
「忘れたの? 3年前。あなたが私を蹴り飛ばして奪った10万円のこと」
電話の向こうの空気が凍りついたのが分かった。 雨音だけがサーッというノイズのように響いている。
「あれは、自動車保険の更新料だったのよ」
『は……?』
「あなたが言ったじゃない。『保険なんて無駄だ』『俺は事故らないから不要だ』って。そして『金輪際、そんな無駄金を払うのは禁止だ』とも言ったわよね」
私は淡々と、かつての彼の言葉をそのまま返した。
「だから私、あなたの言いつけを守ったの。更新なんてしてないわよ」
『――え?』
達也の喉から、間の抜けた音が漏れた。
『う、嘘だろ……? だ、だって、ハガキとか……来てたじゃねえか……』
「ええ、来てたわ。『満期終了のお知らせ』も『契約解除通知』もね。でも、あなたは見ようともしなかった。私が全部処分しておいたわ」
私はテーブルの上の『Xデー・ファイル』を指先で叩いた。 トントン、という軽い音が、彼への死刑宣告のように響く。
「つまりね、達也。今のあなたは……無保険(・・・・・)よ」
『ふ、ふざけんな! 嘘だ! そんなわけあるか!』
達也が錯乱したように叫ぶ。
『おい! 今すぐ入れ! 今から契約しろ! なんとかしろよ!! ベンツだぞ!? 信号機だぞ!? 払えるわけねえだろ!!』
「無理よ。事故を起こした後に保険なんて入れるわけないでしょ。それは詐欺よ」
私は冷たく切り捨てた。
『お前ッ……! 俺を嵌めやがったな!? 妻だろ! なんで黙ってたんだよ!』
「言ったわよ。何度も。『事故を起こしたらどうするの』って。でもあなたは『俺の腕なら事故らない』って笑ってたじゃない」
思い出されるのは、あの日の痛み。脇腹の痣。見下した目。 あの日、私の心は一度死んだ。
だから今、彼がどれだけ泣き叫ぼうと、心は微塵も揺らがなかった。
「自分で蒔いた種よ。その自慢の運転テクニックとやらで、なんとかすれば?」
『ま、待て! 美咲、悪かった! 謝るから! なんとかしてくれ! 警察が来たんだよ! 俺、終わっちまうよ!』
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。 達也の泣き声が混じる。
「ええ、終わったのよ。達也」
私はスマホを耳から離した。
『美咲! 美咲ィィィッ!!』
「さようなら。……地獄へ行ってらっしゃい」
私は通話終了ボタンを押した。 プツン、と音がして、リビングに静寂が戻った。
終わった。 いや、始まったのだ。
彼にとっては地獄の始まり。 私と娘にとっては、新しい人生の始まり。
私はすぐにスマホを操作し、弁護士の先生にメッセージを送った。 『予定通り、計画を実行します』と。
そして、実家の母にも電話をかけた。
「もしもし、お母さん? ……うん、今から帰るね」
雨はまだ降り続いている。 けれど私の心には、3年ぶりに澄み渡るような青空が広がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます