第6話 引き金
その日の朝、窓を叩く雨音で目が覚めた。
予報通りの土砂降りだった。 アスファルトは黒く濡れ、低く垂れ込めた灰色の空が、世界の彩度を落としている。
「チッ、雨かよ……」
リビングに降りると、達也が不機嫌そうにコーヒーを啜っていた。 今日は日曜日。彼は隣県で行われる「カスタムカーの集まり」に行く予定だったはずだ。
「行くの? この雨の中」
「当たり前だろ。せっかく仕上げた車だ、仲間に見せびらかしに行かねえと意味がねえ」
達也は窓の外を睨みつけながら、ニヤリと口角を上げた。
「それに、雨の方が好都合だ。路面が滑りやすいからな。ちょっとアクセル踏めばケツが流れて面白いんだよ」
「……滑りやすいって、あなたの車のタイヤ、もう溝がないじゃない」
私はあえて指摘した。 彼の車のリアタイヤは、過度な改造のせいで内側が極端にすり減り、ワイヤーが見え隠れしている状態だ。
この雨で、そんなタイヤで、ハイパワーの改造車を飛ばす。
自殺行為だ。
「うるせえな、素人が。スリックタイヤみたいなもんでグリップすんだよ。俺の腕なら制御できる」
やはり、聞く耳を持たない。 彼は「危険」を「スリル」と履き違え、自分の運転技術ですべてねじ伏せられると信じている。
「そう。気をつけてね」
「ハン、俺に指図すんな」
達也は着替えを済ませると、車の鍵を掴んで立ち上がった。 私は彼が洗面所に入った隙に、玄関へ先回りした。
そして、下駄箱の上に置いてあったスペアキーを使い、こっそりと車のドアロックを解除した。
運転席に乗り込み、ドライブレコーダーを確認する。 電源ランプが点滅している。SDカードの容量も空きがある。
音声録音設定もオン。 画角も調整済み。
「……よし」
私は静かにドアを閉め、ロックし直した。 このドライブレコーダーは、彼の「武勇伝」を記録するためのものではない。
彼の「愚行」と、事故の瞬間の「過失」を証明するための証人だ。
「おい、何ボサッとしてんだ」
達也が玄関に来た。私は何食わぬ顔で道を空ける。
「いってらっしゃい」
「おう。晩飯は肉がいいな。高い肉買っとけよ」
達也はそう言い捨て、雨の中へ飛び出していった。 ガレージから、近所迷惑な爆音が響き渡る。
ドォォォォン! バリバリバリ!
エンジンが温まりきっていないのに、彼は乱暴にアクセルを煽り、急発進で家を出ていった。
テールランプが雨の幕の向こうに消えていく。 私はそれを見送りながら、なぜか確信した。
――今日だ。
理屈ではない。 3年間張り詰めていた糸が、ふっと緩むような感覚。
この雨。 すり減ったタイヤ。 整備不良の車体。 そして、慢心しきった精神。
すべての条件(フラグ)が揃ってしまった。
「……ママ?」
2階から起きてきた結衣が、眠そうな目をこすっている。 私は深呼吸をして、振り返った。
「結衣、おはよう」
「パパ、行っちゃったの?」
「ええ、行ったわ」
私は微笑んだ。
「ねえ、結衣。お気に入りのバッグにおもちゃとお菓子、詰めておいてくれる?」
「え? どこか行くの?」
「もしかしたら……おばあちゃん家にお泊りに行くことになるかもしれないから」
結衣は一瞬きょとんとしたが、私の顔を見て何かを察したのか、小さく「うん」と頷いて部屋に戻っていった。
私はリビングのテーブルに座り、スマホを置いた。 その隣に、分厚い黒いファイル――『Xデー・ファイル』を置く。
準備は万端。 あとは、その時を待つだけ。
時計の針は午前9時を回った。 雨は激しさを増し、窓ガラスを叩き続けている。
そして。
達也が出ていってから2時間後。午前11時15分。
静寂を切り裂くように、私のスマホが鳴り響いた。
画面に表示された名前は『達也』。
震える指ではなく、冷え切った指で、私は通話ボタンを押した。
「……はい」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、雨音と、車のクラクションのようなノイズ。
そして、聞いたこともないような、夫の悲鳴じみた裏返った声だった。
『み、美咲ッ!? た、助けてくれ!!』
引き金は、引かれた。
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