第5話 ほころび
破滅へのカウントダウンは、日常の些細な亀裂から始まった。
日曜日の早朝。 まだ街が眠っている時間帯に、あの爆音が住宅街に轟いた。
ドォォォォン……!
達也が「エンジンの調子を見る」と言って、ガレージで空吹かしを始めたのだ。
「……うるさい」
隣で寝ていた娘の結衣が、布団を頭からかぶって震えている。 私は急いでリビングへ降り、勝手口からガレージへ向かった。
「ちょっと達也! 時間が何時だと思ってるの! 近所迷惑よ!」
「あぁ? アイドリングの調整だ。暖機運転もしねえで走れるかよ」
達也は悪びれもせず、さらにアクセルを煽った。 改造されたマフラーが悲鳴のような排気音を撒き散らす。
その時だった。
「いい加減にしてくださいよ!」
隣の家に住む田中さんが、パジャマ姿のまま血相を変えて飛び出してきた。
「毎晩毎晩、爆音で帰ってきて……今日は早朝からこれですか! ウチには受験生がいるんですよ!」
「はあ? 公道走れる車検対応(・・)のマフラーだぞ。文句あんのか」
達也は車から降りると、田中さんを威圧するように仁王立ちした。 もちろん、そのマフラーが違法パーツであることを、私は知っている。
「警察呼びますよ!」
「呼べばいいだろ! 俺の車がカッコ良すぎて妬んでんのか? 貧乏人は心が狭いな!」
達也は逆ギレし、田中さんの胸倉を掴まんばかりの勢いで怒鳴り散らした。 田中さんは恐怖に顔を歪め、捨て台詞を残して家へ戻っていった。
「……何やってるのよ」
私が低い声で言うと、達也は鼻を鳴らした。
「チッ、近所付き合いもできねえクレーマーが。俺は被害者だ」
「被害者はあっちよ。あなた、この辺りで白い目で見られてるの気づかないの?」
「フン、凡人にはこの音の良さが分からねえんだよ」
達也は再び運転席に戻り、バリバリと音を立てて車を出し、どこかへ走り去っていった。 残されたのは、排気ガスの臭いと、ご近所さんからの冷ややかな視線だけ。
私は深いため息をつくと、ポケットに入れていたボイスレコーダーの録音を停止した。
今の暴言もしっかり記録した。 これで、近隣トラブルによる責任の所在も明確になる。
◇
その日の午後。 私は娘を連れてファミレスにいた。
結衣がポテトを食べながら、ポツリと言った。
「ママ……パパと離婚するんでしょ?」
「えっ……」
小学3年生になった結衣は、私が思う以上に大人びていた。 彼女の目には、不安よりも諦めのような色が浮かんでいる。
「だって、ママずっと何か書いてるし。パパのこと嫌いだし」
「……結衣は、どう思う?」
「パパは嫌い。怖いし、友達にも『お前の父ちゃんの車うるさい』って言われるの。恥ずかしい」
胸が締め付けられるようだった。 娘にも我慢を強いる3年間だったのだ。
「ごめんね、結衣」
私は娘の手を強く握った。
「もうすぐ終わるから。ママが全部準備したから、もう少しだけ待って」
「……うん」
私は鞄からスマホを取り出し、不動産屋からのメールを確認した。 契約審査は通り、あとは入居日を決めるだけの状態になっている。
達也は今、崖のふちを歩いている。
近隣トラブル、違法改造、そして無保険。 彼が足を滑らせるのは、もう時間の問題だ。
◇
数日後。 帰宅した達也の様子が少しおかしかった。
いつもなら車の自慢話をするのに、今日は妙に無口で、イライラと貧乏ゆすりをしている。
「どうしたの?」
「……あ? いや、なんでもねえ」
彼は視線を逸らした。 私は洗面所に行き、彼の作業着のポケットを探った。
出てきたのは、一枚の紙切れ。 『整備命令書』
警察の検問か何かで、違法改造の指摘を受けたらしい。
「直すの?」
リビングに戻って聞くと、達也は舌打ちした。
「直すかよ。コーちゃんに頼んで、シールだけ偽装してもらうさ。馬鹿正直に従ってられるか」
――あぁ、この人は。 法も、ルールも、人の迷惑も、何もかも軽視している。
これ以上の猶予は、もう必要ない。
私はキッチンカレンダーの翌週の日付に、赤い丸をつけた。 来週は雨予報が続いている。
舞台は整いつつあった。
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