第3話 潜伏開始
翌日。私は仕事を半休し、整形外科の待合室にいた。
「……肋骨にヒビが入っていますね。全治三週間といったところでしょう」
レントゲン写真を見せられながら、医師が淡々と告げた。 脇腹にはどす黒い痣が広がっている。
ズキズキとした痛みは消えないが、不思議と心は凪のように静かだった。
「診断書、書きますか? 警察に提出するなら詳細に書きますが」
「はい。お願いします。『夫による暴力』と、明記してください」
私は迷わず答えた。
受け取った診断書。治療費で数千円が飛んだが、これは出費ではない。「投資」だ。 私はその書類をクリアファイルに丁寧に挟み、鞄の奥底へしまった。
これが、私の反撃の第一歩だ。
◇
家に帰ると、私はすぐに「ある場所」の整理を始めた。 クローゼットの奥、達也が絶対に開けない衣装ケースの底。
そこに、黒い厚手のファイルを一冊隠した。 名付けて『Xデー・ファイル』。
最初に入れたのは、今日の診断書。 そして、次に手に取ったのは――昨日、達也に破り捨てられそうになった『自動車保険更新のお知らせ』だ。
更新期限は今日まで。
本来なら、慌てて代理店に電話をして泣きつき、手続きをするところだ。 でも、私は何もしない。
その代わり、達也の行動パターンを思い返していた。
彼は郵便ポストを見ない。 公共料金のハガキも、督促状も、すべて私が管理して支払ってきた。 彼は「家に帰れば電気も水も使えて当たり前」だと思っている。
「……つまり、私が黙っていれば、彼は何も気づかない」
保険会社からは、これから何度か通知が来るはずだ。 『満期終了のお知らせ』『契約解除通知』。
それらがポストに入った瞬間、私が回収し、この黒いファイルに直行させる。 達也の目には触れさせない。
彼の中では「保険に入っているつもり」あるいは「俺の言う通り更新しなかった(でも何も問題は起きていない)」という認識のまま、日常が続いていくのだ。
◇
その日の夜。 達也は上機嫌で帰宅した。
手には大きな段ボール箱。昨日、私から奪った金で買ったマフラーだろう。
「おう、美咲。飯」
私の顔を見ても、脇腹を蹴ったことへの謝罪は一切ない。 むしろ「言うことを聞かせた」という支配欲で満たされているようだった。
「はい、カレー温めるわね」
「ん。……お、今日は素直じゃねえか」
私が文句一つ言わずにキッチンへ向かうと、達也は拍子抜けしたような声を出した。
「やっと分かったか? 俺に逆らっても無駄だって」
「ええ、よく分かったわ。達也の言う通りにする」
背中越しに答える。 嘘ではない。
あなたの言う通り、保険は更新しなかった。 あなたの望んだ「無保険生活」をプレゼントしたのだ。
「へっ、最初からそうしてりゃいいんだよ。俺の運転なら保険なんてお守りにもなりゃしねえ」
達也は鼻歌交じりに箱を開封し始めた。 私は鍋をかき混ぜながら、スマホで検索履歴を確認する。
『離婚 準備 期間』 『慰謝料 相場 DV』 『財産分与 隠し口座』
今すぐ家を出ることも考えた。 でも、それでは足りない。
今離婚しても、彼は「性格の不一致」で逃げようとするだろうし、慰謝料も踏み倒すだろう。養育費だって払われる保証はない。
彼には定職がある。車という資産(彼にとっては)もある。
徹底的に毟り取るには、彼が「社会的にも経済的にも逃げ場がない状態」になった瞬間を狙う必要がある。
(3年……いや、もっと早くチャンスは来るかもしれない)
私はカレー皿をテーブルに置いた。 達也がガツガツと食べ始める。
「あー、うめぇ。やっぱ俺の金で食う飯はうめぇな!」
その言葉を聞き流しながら、私は心の中で冷たく笑った。
食べておきなさい。 今のうちに、好きなだけ。
あなたのその慢心が、やがてあなた自身を食い潰すその時まで。
私は翌日、さっそく弁護士の無料相談の予約を入れた。 夫を社会的に抹殺するための、長い長い潜伏期間が始まった。
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