第2話 十万円の蹴り
あの日から数日後。 私はパートのシフトを増やして作った時間で、銀行へ行ってきたばかりだった。
鞄の底には、封筒に入れた現金10万円。
達也があんな調子だから、私が内緒で保険の更新手続きをするしかない。 情けないけれど、もし事故が起きて路頭に迷うのは、私と娘の結衣なのだ。
「ただいま……」
夕方、誰もいないはずの家に帰ると、玄関に達也の靴があった。 嫌な予感が背筋を走る。
今日は仕事のはずじゃ?
「遅ぇぞ、美咲」
リビングに入ると、達也が血走った目でスマホを睨んでいた。 部屋の中は荒れていて、タバコの吸い殻が散乱している。
「どうしたの? 仕事は?」
「早退した。それより美咲、金だ。金出せ」
達也がいきなり私に詰め寄ってきた。 酒の匂いはしない。けれど、興奮状態で目が据わっている。
「金って……生活費はもう渡したでしょ?」
「足りねぇんだよ! ネットオークションでどうしても欲しい『幻のマフラー』が出品されたんだ! 即決価格で10万だ。今すぐ払わねぇと他の奴に取られる!」
頭が真っ白になった。 マフラー? そんな鉄パイプのために?
「無理よ。そんな大金、あるわけない」
「嘘つけ! お前、さっき銀行の封筒持ってたよな? 玄関で見たぞ」
しまった。帰宅したところを見られていたのか。 私は反射的に鞄を背中に隠した。
「これはダメ。絶対にダメなお金なの!」
「あるんじゃねぇか! よこせ!」
達也が私の腕を掴む。男の力には敵わない。 私は必死で鞄を抱え込み、床にうずくまった。
「お願い、やめて! これは自動車保険の更新料なの! 今日払わないと本当に切れちゃうのよ!」
「あぁ? まだそんなこと言ってんのか! 俺は事故らねぇっつってんだろ!」
「万が一のためよ! 家族を守るためのお金なの!」
「うるせぇ! 俺の楽しみを邪魔すんじゃねぇ!」
ドスッ、と鈍い音がした。
一瞬、呼吸が止まった。
脇腹に走る激痛。 達也が、私を蹴り上げたのだ。
「ぐっ……ぁ……」
「チッ、大袈裟なんだよ」
痛みで力が抜けた隙に、鞄をひったくられる。 達也は乱ボーに中身をぶちまけ、銀行の封筒を見つけると、満面の笑みを浮かべた。
「っしゃあ! やっぱり持ってんじゃねえか! これで落札できる!」
「返して……それは……結衣のための……」
「うるせぇな。俺が稼いだ金だろ? 俺がどう使おうが文句言われる筋合いはねぇんだよ」
達也は中身の諭吉を数え、満足そうに頷くと、うずくまる私に見向きもせずに玄関へ向かった。
「保険、保険ってバカの一つ覚えみたいに言い続けやがって。金輪際、そんな無駄金払うのは禁止だ。いいな?」
バタン、とドアが閉まる音。 すぐにエンジンの爆音が響き、遠ざかっていった。
リビングには静寂だけが残された。
脇腹がズキズキと脈打つ。 散乱した私の持ち物。床に落ちた小銭。
そして、テーブルの下に落ちていた『保険契約更新のお知らせ』のハガキ。
私は涙を拭わず、痛む体を引きずって起き上がった。 ハガキを拾い上げる。
『更新期限:明日まで』という赤文字が目に入った。
――悔しい。 痛い。 情けない。
でも、それ以上に。 心の中で「プツン」と、何かが切れる音がした。
それは、私が彼に抱いていた最後の情けだったのかもしれない。
「……そう」
私は独り言を漏らした。声は、驚くほど冷えていた。
「あなたが、いらないって言ったのよね」
彼は言った。『俺は絶対に事故らない』と。 彼は言った。『無駄金を払うのは禁止だ』と。
だったら、その通りにしてあげよう。
望み通り、その10万円はマフラーに変わった。 その代わり、あなたの人生を守る「命綱」は、今ここで断ち切られた。
私は破れたハガキをゆっくりと握りつぶした。 不思議と涙は止まっていた。
「自己責任よ、達也」
もう、忠告はしない。 更新もしない。 あなたが無保険で車を走らせることを、私は黙って見ていることにする。
ズキリと痛む脇腹を押さえながら、私は散らばった荷物を片付け始めた。 私の復讐は、この瞬間から始まったのだ。
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