「俺の運転テクなら事故らない」と保険解約を強要した夫、高級車に追突。無保険の事実に絶望する彼を、私はバックミラー越しに笑って捨てた

品川太朗

第1話 俺の運転テクなら事故らない


「……今月も、赤字か」


深夜、リビングの冷たいフローリングに座り込み、私は家計簿と睨めっこをしていた。 ため息をつくと、その重みでさらに肩が沈む気がした。


私の名前は美咲(みさき)、32歳。 どこにでもいる兼業主婦だと思っているけれど、我が家の家計は「どこにでもある」レベルをとうに超えて火の車だった。


原因は明白だ。


家の外から響いてくる、鼓膜を揺らすような重低音。 ドッドッドッ……と腹に響くマフラー音が近づいてきて、家の前で止まる。


「おかえり、達也(たつや)」


「おう。飯」


玄関に入ってきた夫・達也は、私の顔も見ずにそう言った。 作業着から漂うタバコとオイルの匂い。手にはコンビニ袋に入った発泡酒。


彼は靴を脱ぎ捨てると、ドカッとソファに座り込み、スマホで車のパーツサイトを眺め始めた。


「ねえ、達也。ちょっと相談があるんだけど」


「あぁ? なんだよ、せっかく気分良く帰ってきたのに」


達也は露骨に不機嫌そうな顔をした。 この人はいつもそうだ。 自分の機嫌が最優先で、家庭の問題など「俺の邪魔をする雑音」としか思っていない。


「今月のカードの引き落としなんだけど……車のパーツ代、また5万円も使ってるでしょ。これじゃ食費が足りなくなるの」


「はあ? たかが5万だろ。俺が稼いだ金で何買おうが勝手じゃねえか」


「生活費を入れるって約束でしょ? それに、私のパート代だって限界があるわ。娘の結衣(ゆい)の修学旅行の積立だってあるのに」


私が必死に訴えても、達也は鼻で笑った。


「お前のやりくりが下手なだけだろ。もっと安いスーパー探せよ。……あー、うるせえ。せっかく新しいエアロ組んで最高だったのによ」


達也の趣味は、愛車いじりだ。 中古で買ったスポーツセダンを、法に触れるか触れないかギリギリ――いや、車高を見る限りアウトだろう――の改造を施して乗り回している。


「走り屋」気取りの彼は、車にかける金を惜しまない。 そのしわ寄せが全て私と娘に来ていることなど、お構いなしだ。


「それと……これ」


私はテーブルの上に、一通の封筒を置いた。 意を決して切り出す。


「自動車保険の更新通知。来月までに10万円必要よ。等級が下がってるから高くなってるの」


「あぁ?」


達也が封筒を手に取り、中身も見ずにテーブルへ放り投げた。


「高ぇよ。なんだこのボッタクリ価格」


「あなたが去年、駐車場で当て逃げ同然の事故を起こして保険を使ったからでしょ」


「チッ、あんなの相手が悪かったんだよ」


達也は悪びれる様子もなく、ビールを煽った。 そして、信じられない言葉を吐き捨てた。


「更新なんかしなくていいよ、こんなの」


「……え?」


私は耳を疑った。


「無駄なんだよ、保険なんて。毎月毎月、何も起きねえのに金だけ取られてよ。その10万がありゃ、新しいホイールが買えるんだよ」


「な、何を言ってるの!? 万が一事故を起こしたらどうするのよ! 賠償金なんて払えないわよ!」


私が声を張り上げると、達也は面倒くさそうに私を睨みつけた。 その目には、私を見下す冷たい光が宿っている。


「お前さぁ、俺を誰だと思ってんの?」


達也はニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。


「俺の運転テクニック見たことあんだろ? そこらの下手くそなサンデードライバーとは違うんだよ。俺が事故るわけねえだろ」


「でも……!」


「うるせえな! 俺は『絶対に』事故らない自信があるの。だから保険なんて不要なんだよ。金をドブに捨てるようなもんだ」


根拠のない自信。 異常なまでの過信。 この人は、自分が「特別」だと信じ込んでいる。


「とにかく、更新はしなくていい。その金は俺の小遣いに回せ」


「そんなことできない! 車に乗るなら保険は義務みたいなものでしょ!」


私が食い下がると、達也がいら立ちを露わにして立ち上がった。 180センチ近い巨体が、私を見下ろす。


「おい美咲。誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ? 俺の方針に口答えするなら、タダじゃおかねえぞ」


握りしめられた拳が、目の前で震えている。 恐怖で言葉が詰まった。


昔は優しかったはずの彼は、車への執着と生活の荒みと共に、どんどん怪物になっていった。


「……わかったわよ。少し、考える」


私はそう言うのが精一杯だった。 ここで殴られて怪我をすれば、明日のパートに行けなくなる。それだけは避けたかった。


「フン、わかればいいんだよ。俺の車は俺が守る。保険会社なんかに守ってもらう必要はねえ」


達也は満足げに笑うと、再びスマホの画面に見入った。 私はキッチンへ逃げるように移動し、震える手で水を飲んだ。


――あんな言い草があるだろうか。


絶対に事故らない? そんな保証、どこにあるというの。


キッチンの隅に隠してある、へそくりの通帳をそっと取り出す。 コツコツと貯めた、なけなしの10万円。


来週には更新手続きをしないと、本当に保険が切れてしまう。


(やっぱり、私がこっそり払うしかない……)


この時の私はまだ、甘かった。 夫が、この大切なお金に手を付けるなんて想像もしていなかったし、


数年後、彼が吐いた「保険なんて不要」という言葉を、私が現実にしてやることになるなんて、夢にも思っていなかったのだ。

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