第9話:崩壊するシステム
法廷の空気は、キンと冷えた氷室のように乾燥し、沈黙が重く張り詰めていた。
証言台の硬い椅子に座る結は、目の前の「正義」を象徴する法服の黒に、押し潰されそうな圧迫感を感じていた。手のひらはじっとりと汗ばみ、膝の上で組んだ指が白くなるほど震えている。傍聴席の最前列には、険しい表情の佐藤が座り、結を鼓舞するように見つめていた。
「……被告人、神崎。あなたは売春防止法第12条に基づき、女性たちを住まわせ、組織的に売春をさせた『業』の罪に問われています。間違いありませんか?」
検察官の鋭い問いに対し、被告人席の神崎は、ゆっくりと立ち上がった。 かつての高級スーツではなく、地味なグレーの作業着姿。だが、その瞳に宿る不敵な光と、首筋から漂うかすかなサンダルウッドの香りは、あの地獄の「寮」の記憶を鮮明に呼び起こした。
「……心外ですね。私はただの、マッチングビジネスの運営者ですよ」
神崎は、まるで演説でもするかのように、滑らかな口調で話し始めた。 「私は彼女たちに、安全な居場所と、出会いの機会を提供しただけです。そこで何をするか、服を脱ぐか脱がないか。それはすべて彼女たちの『自由意思』だ。私は一度たりとも、性交を強要したことはありません。そうでしょう、結さん?」
神崎の視線が、結を貫く。 結は胃の奥を冷たいナイフで抉られたような痛みを覚えた。
「自由……意思……」 結の声は、かすれて消えそうだった。
「そうです、自由だ」 神崎の弁護士、門倉が畳み掛けるように立ち上がった。 「売春防止法第12条における『支配』とは、身体的な拘束や暴力、あるいは重大な脅迫を伴うものを指します。しかし、本件において、結さんは自分のスマホを持ち、外出も許可されていた。借金の返済も、彼女がより良い生活を求める中で自ら合意した契約の一部です。これを『管理売春』と呼ぶのは、個人の自由恋愛と経済活動への不当な介入ではありませんか?」
法廷の中に、さざ波のような動揺が広がる。 法解釈の限界。 「暴力がなければ、それは自由である」という、法律が持つ冷酷な論理が、結の目の前に分厚い壁として立ちはだかった。
「……違います」 結は絞り出すように言った。 「自由なんかじゃなかった。私は、家賃が払えなくて、食べるものもなくて、逃げ場がなかったんです。神崎さんはそれを見ていて、『救ってやる』と言って私をあの部屋に入れた。お金を稼がないと出られないようにして、毎日、毎日、知らない男の人に体を触らせて……」
「それは経済的な困窮であって、被告人の強制ではありません」 門倉が冷淡に遮る。 「結さん。あなたは、嫌なら断ることもできたはずだ。警察に駆け込むこともできた。でも、あなたは報酬を受け取り、次のお客を待っていた。それはあなたの『選択』だ」
結の視界が、怒りと屈辱で白く霞んだ。 選択。 食べるか、死ぬか。売るか、飢えるか。 そんな二択しか残されていない状況を、この立派な法服を着た大人たちは「自由」と呼ぶのか。 部屋に充満する、古い紙とインクの匂い。裁判官の無表情な顔。すべてが、結という人間を透明な数字として処理しようとしている。
「ふざけるなッ!」
傍聴席から、佐藤の怒号が響いた。 「静粛に!」 裁判長の制止を無視して、佐藤は立ち上がった。 「彼女に選択肢を与えなかったのは、神崎だ。そして、選択肢を奪い続けているのは、この国の不備な法律だ! 買う側に罰則がないから客は群がり、禁止だけして助けないから彼女たちは戻る場所を失う。この『構造』そのものが暴力なんだ!」
佐藤は警備員に取り押さえられ、法廷から連れ出されていった。 その去り際、佐藤と結の視線が一瞬だけ重なった。 佐藤の目は、泣いていた。法では裁けない悪への憤りと、救えない命への絶望。
「……私の意思は」 結は、震える声で、しかしはっきりと法廷に告げた。 「私の意思は、あの日、死にました。神崎さんが私に鍵を渡した瞬間に。法律が私を『自己責任』と言って切り捨てた瞬間に。私はもう、自分の心がどこにあるのか分からなくなったんです」
法廷内が、しんと静まり返った。 神崎は、つまらなそうに爪を見つめている。彼にとって、この裁判はただの「ルールの確認」に過ぎないのだ。
「……本日の審理を終了します。判決は、後日」
裁判長の声が、虚しく響いた。 結は、足の感覚が失われたような心地で証言台を降りた。 裁判所の廊下に出ると、そこには凛が待っていた。
「結さん、よく言ったわ」 「凛さん……私、勝てますか?」
凛は、結の肩を抱き寄せた。その手は温かかったが、凛の表情は晴れなかった。 「法は、目に見える傷しか裁かない。神崎のような『賢い悪魔』は、法律の行間を歩くのが得意なの。でもね、あなたの言葉は、このシステムの崩壊を確かに突きつけたわ」
外に出ると、夕暮れの空が真っ赤に燃えていた。 法廷という密室の中で繰り広げられた、言葉の削り合い。 それは、正義を決める場所というよりは、誰が一番「法律を味方につけて嘘をつけるか」を競うゲームのようだった。
結は、自分の胸元に手を当てた。 鼓動はまだ、激しく打っている。 法が崩壊していても、システムが彼女を見捨てても、彼女の「生」という熱だけは、確かにここに残っていた。
第9話 完
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