第10話:境界線の先へ

裁判所の高い天井から降り注ぐ冷光が、判決主文を読み上げる裁判長の声を無機質に反射していた。


「被告人、神崎を懲役三年、執行猶予なしの実刑に処する」


法廷内に、小さく、しかし確かな溜息が漏れた。神崎は表情を変えず、ただ一度だけ、窮屈そうにネクタイを緩める仕草を見せた。その首筋からは、もはやあのサンダルウッドの香りはしなかった。独房の、コンクリートと埃の匂いが染み付いているようだった。


結は、隣に座る凛の手を強く握りしめた。勝った。法は、神崎の行為を「業」であると認めた。けれど、結の胸に去来したのは、歓喜ではなく、冬の海を眺めているような静かな空虚感だった。


神崎が連行される際、彼は結の横を通り過ぎた。その瞬間、彼は足を止め、結の耳元に届くか届かないかの低い声で囁いた。


「……俺がいなくなっても、この街の空腹は消えないよ。君も、いずれ気づくさ」


その言葉は、呪いのように結の鼓動にまとわりついた。


一週間後。 結は、凛が用意してくれた小さなアパートの部屋で、荷解きをしていた。 六畳一間の、決して新しくはない部屋。けれど、窓を開ければ隣家のキンモクセイの香りが微かに漂い、西日が畳をオレンジ色に染めている。誰にも鍵を管理されず、誰の足音に怯えることもない、自分だけの空間。


「結さん、お茶が入ったわよ」 凛が、使い古されたマグカップを持ってやってきた。


「……凛さん。私、ときどき怖くなるんです」 結は、段ボール箱の上に座り込み、ポツリと言った。 「神崎さんは捕まった。でも、私の借金が消えたわけじゃない。明日からバイトを始めても、手元に残るのはほんの少し。また家賃が払えなくなったら、またお腹が空いたら……私は、あの境界線を越えずにいられるんでしょうか」


凛は、窓の外を見つめた。そこには、どこまでも続く東京のビル群が、夕闇に飲み込まれようとしていた。


「越えさせないために、私たちがいるのよ。売春防止法は、あなたを罰しない代わりに、あなたを救うための具体的な手立ても持っていなかった。でも、今、ようやく変わり始めている。法が救えない隙間を、人の手で埋めていくしかないの」


凛は結の肩に手を置いた。その手のひらは、あの出会いの日と同じように、力強く、温かかった。


「処罰は終わりじゃない。そこからが、本当の戦いなのよ。あなたが『自分を売らなくても生きていける』と、心から信じられるようになるまでのね」


同じ夜、佐藤は六本木の雑踏の中に立っていた。 神崎を立件した功績で表彰されるはずだったが、彼はそれを辞退した。法廷での不規則発言を理由に、現在は一ヶ月の謹慎処分を受けている。


街の匂いは変わらない。 排気ガス、酒、安っぽい香水、そして行き場のない欲望が入り混じった、湿った夜の空気。 神崎という巨悪を一人排除したところで、街角にはまた新しい「パパ活」の掲示板が立ち上がり、身なりの良い男たちが、獲物を探す目をして歩いている。


「……何も変わってねえな」


佐藤は自嘲気味に笑い、ポケットから警察手帳を取り出した。その黒い革の表紙は、長年の捜査でボロボロに擦り切れている。 売春防止法第3条。禁止されているが、罰はない。 その不完全な言葉の陰で、今夜もまた、誰かが境界線を踏み越えようとしている。


「佐藤さん」


背後から声をかけられ、振り返ると、そこには以前より少しだけ顔色の良くなった結が立っていた。彼女は、あの派手なコートではなく、落ち着いた紺色のジャケットを着ていた。


「……結。どうした、こんな時間に」 「凛さんのところで、夜回りの手伝いを始めたんです。あのアリスちゃんみたいな娘が、また現れないように」


結は、繁華街のネオンを見つめた。 「私、神崎さんに言われたんです。この街の空腹は消えないって。……確かにそうかもしれません。でも、空腹に耐えられなくなったとき、手を差し出してくれる人が一人でもいれば、景色は変わる。私は、その手の一人になりたいんです」


佐藤は、結の瞳の中に、消えかかっていた「自分への信頼」が灯っているのを見た。 法は、人間の心を修復することはできない。それは、ただの冷たい物差しに過ぎないからだ。けれど、その不完全な物差しを、どう使い、どう補っていくかは、生きている人間に委ねられている。


「そうか。……俺も、もう少し足掻いてみるよ。このクソッタレな法律が、いつか本当に彼女たちを守る楯になるまで」


佐藤は警察手帳をポケットにしまい、結と同じ方向、夜の深淵を見つめた。 二人の間に、言葉はもう必要なかった。


夜風が吹き抜け、結の髪を揺らす。 その風には、もう死んだサンダルウッドの匂いは混じっていない。 どこか遠くで咲いている、名もなき花の、微かな、けれど確かな生命の香りがした。


境界線の先にあるのは、決して楽園ではない。 けれど、そこには「共に歩く」という、法には書かれていない、最も残酷で、最も美しい希望が転がっていた。


二人は、それぞれの夜の中へ、一歩ずつ踏み出していった。


第10話(最終話) 完


【全10話・完結】 最後までお付き合いいただきありがとうございました。売春防止法の「不可罰」と「保護更生」のジレンマを、結と佐藤の葛藤を通して描き切りました。


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