第8話:搾取の連鎖

シェルターの窓の外では、細い雨が止むことなく降り続いていた。


結はベッドの端に座り、自分の両腕を抱きしめていた。どれほどシャワーを浴びても、石鹸を泡立てて皮膚が赤くなるまで擦っても、男たちの手の感触が消えない。タバコと脂の混ざった体臭、耳元で囁かれた卑猥な言葉、そして自分を人間ではなく「肉」として値踏みする冷たい視線。


「……結さん、入るわよ」


凛がトレイを持って入ってきた。湯気の立つスープの匂いが部屋に広がる。だが、結はその匂いにさえ、ある種の吐き気を覚えた。


「食べられない? 少しでも口にしないと、体力が持たないわ」 「……凛さん。私、汚いですよね」


結の声は、枯れ葉が擦れるような音だった。 「そんなことない。あなたは傷つけられただけ。汚いのは、あなたを傷つけた側よ」


「でも、あの人たちは笑ってる」 結は、シーツの下からスマホを取り出した。画面には、かつての「客」たちから届くメッセージの通知が止まらない。神崎の組織から流出したのか、それとも男たちが横の繋がりで共有したのか。


『また会える? 前の場所、神崎がいなくなって不便だよ』 『いくらなら出す? 相談乗るよ』


「警察が神崎さんを調べている間も、この人たちは平気で私を買いに来る。誰も捕まらない。私がどれだけ泣いても、死にたいと思っても、あの人たちは『お金を払ったんだから自由だろ』って顔で街を歩いてる。売春防止法って、何なんですか? 禁止されてるのに、買う人はお咎めなしなんて……そんなの、誘っているのと同じじゃないですか」


結の手が激しく震え、スマホが床に落ちた。 「禁止」という言葉の、あまりの無力さ。法が「いけないこと」だと言いながら、その実、買う側の男たちの財布と欲望を容認している不条理。その矛盾が、結の心を内側から鋭利な刃で切り刻んでいた。


数時間後。凛が別の相談者の対応で目を離した隙に、結は洗面所の鏡の前に立っていた。 鏡に映る自分は、幽霊のように青白い。 彼女は、ポーチの奥に隠し持っていた小さなカミソリを取り出した。


(ここを切れば、あの男たちの感触も、神崎さんの匂いも、全部消えるかな)


冷たい金属が手首に触れた瞬間、微かな快感さえ覚えた。 自分を傷つけることだけが、自分に残された最後の「自由」であるかのように。


「結、やめなさい!」


間一髪で飛び込んできた凛が、結の手を掴んだ。カミソリがタイルに落ち、高い金属音を立てる。結の細い手首には、一筋の赤い線が滲んでいた。


「放して! 私はもう壊れてるの! 商品として使い古されて、もうゴミになっちゃったの!」 「あなたはゴミじゃない! 人間よ!」


凛は結を強く抱きしめた。 結の体は氷のように冷たかったが、流れる涙だけが熱かった。


「……どうして買う側は許されるの?」 結は凛の肩に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。 「あのアリスちゃんを抱いた男だけは捕まった。でも、18歳になった私を抱く男たちは、ただの『お客様』。同じことをしているのに、私の体だけが消費されて、あいつらの人生は傷ひとつつかない……。不公平だよ、凛さん……」


その頃、佐藤は署の裏階段で、かつての馴染みの情報屋から渡された写真を見ていた。 そこには、凛のシェルターの周りをうろつく、高級車に乗った男たちの姿が写っていた。


「佐藤の旦那、ありゃあ確信犯ですよ。神崎がパクられそうだって聞いて、女たちがバラける前に最後の一搾りをしようって連中だ。なんせ、買うだけなら捕まりゃしねえんだから、リスクゼロの娯楽ですわ」


佐藤は写真を握りつぶした。 売春防止法。その最大の欠陥が、今、目の前で結を追い詰めている。 買う側に罰則がないという事実は、彼らに免罪符を与えているのと同じだ。


「……禁止されているが、罰はない」 佐藤は呟いた。 「その空白のせいで、女たちが死ぬ。この法律は、道徳を守るふりをして、男たちの特権を守っているだけじゃないのか」


佐藤は階段を駆け下りた。 法に罰則がないのなら、別の力で彼らを裁くしかない。 彼は、昨日大河原から受けた脅しを思い出した。自分の進退? 予算委員会? そんなものはどうでもいい。


彼は車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。 向かうのは、シェルターの周りにたむろする「客」たちの一人が経営する、会員制のバーだ。


「法が動かないなら、俺が動く。たとえ刑事を辞めることになっても」


夜の街に、パトカーのサイレンではない、一台の車のタイヤの軋む音が響き渡った。 それは、沈黙する法に対する、一人の男のささやかな、しかし決死の反逆だった。


結の流した血の匂いが、まだ佐藤の鼻の奥に残っているような気がしていた。 搾取の連鎖を断ち切るには、その鎖を握っている「買う側」の指を、一本ずつへし折るしかないのだ。


第8話 完


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