第7話:証拠の壁(違法収集証拠)
取調室の空気は、吐き気がするほど重く、澱んでいた。 換気扇の回る音が、まるで神経を逆なでする耳鳴りのように響く。
佐藤の目の前には、不敵な笑みを浮かべた神崎と、その傍らで高級な万年筆を弄ぶ弁護士・門倉が座っていた。
「……これを見てください」 佐藤は、神崎の「寮」で密かに録画した動画データを再生した。画面には、結が怯えながら神崎から金を渡される瞬間と、神崎が「今日はあの部屋に三投入れた(三人の客を回した)」と吐き捨てる音声が鮮明に残っている。
「これが第12条、『業として売春をさせた』決定的な証拠だ」
佐藤の言葉を、門倉が鼻で笑った。 「佐藤刑事。あなたは非常に熱心な警察官だ。だが、この動画は……ゴミだ」
門倉は万年筆を置き、冷徹な瞳で佐藤を射抜いた。 「この動画は、あなたが清掃業者を装い、令状もなく、居住者の承諾も得ずに私的な空間に侵入して撮影したものです。憲法第35条の住居の不可侵を侵した、明白な違法捜査だ。違法に収集された証拠に、証拠能力は認められない。……違法収集証拠排除法則。法学部なら一年生でも知っている常識ですよ」
佐藤の奥歯が軋んだ。 「……あそこは売春の現場だ! 女たちが搾取されている地獄なんだ。一分一秒を争う状況で、悠々と令状を待っていられるか!」
「動機が正義であっても、手続きが不正であればそれは悪です」 門倉は優雅に椅子に背を預けた。 「密室で行われる行為を暴くのは大変でしょう? だからこそ、法は厳格な手続きを求めている。あなたがやったことは、正義ではなく、ただの暴走だ。この動画は法廷には出せない。つまり、存在しないも同然なんだ」
神崎が、煙草を吸う真似をして佐藤を挑発した。 「残念だったな、刑事さん。あんたの『熱意』が、逆に俺を自由にするんだ」
署の廊下に出ると、結が待っていた。 彼女は、凛から借りた少しサイズの大きなセーターに身を包み、所在なさげに自分の指先を見つめていた。その指先からは、あのアリスが持っていたストロベリーの香りはもうしない。ただ、安っぽい石鹸の匂いだけが微かに漂っていた。
「……佐藤さん。あいつ、捕まるんですよね?」
結の問いに、佐藤は言葉を詰まらせた。 「……すまない、結。俺のミスだ。証拠が……法廷で使えないかもしれない」
「え……?」 結の瞳が大きく揺れた。 「あんなに、あんなに怖い思いをして、佐藤さんが助けてくれたのに。あそこの空気、男たちの目、神崎さんの声……全部本当のことなのに。法律は、それを見ないフリをするんですか?」
佐藤は、壁を強く殴りつけた。 乾いた衝撃音が廊下に響き、手のひらに鋭い痛みが走る。だが、その痛みさえ、無力感という巨大な重圧に比べれば微々たるものだった。
「売春は、壁の中で行われる。客と女が口を割らなければ、外からは何も見えない。だからこそ、神崎のような奴らはそこを逆手に取る。適正手続きという名の盾を使って、自分たちの醜悪な商売を守るんだ」
「おかしいですよ……」 結は、震える声で言った。 「神崎さんはあんなに堂々と悪いことをしているのに。佐藤さんは私を助けようとしただけなのに。どうして、助けようとした人が責められて、壊そうとしている人が守られるんですか?」
佐藤は答えられなかった。 法律は、弱者を守るための傘であると同時に、強者が逃げ込むための城塞でもある。 密室という特権的な空間。そこで行われる行為を立件するためには、神の目を持つか、悪魔と手を組むしかないのか。
その夜、佐藤は一人、行きつけの居酒屋のカウンターで、濁った酒を煽っていた。 店のテレビでは、石川議員が「クリーンな街づくり」を説くニュースが流れている。
(適正手続き……。証拠能力……)
頭の中で、門倉の冷ややかな言葉が反芻される。 捜査員が暴走すれば、それは国家による暴力になる。その抑制が法治国家の根幹であることは理解している。だが、その「正しさ」の陰で、結のような女性たちが今も暗い部屋で消費されている現実を、法はどう説明するのか。
「刑事さん、浮かない顔だね」 店主の声に、佐藤は力なく笑った。
「……目の前に崖から落ちそうな人間がいる。手を伸ばせば助けられる。でも、その手を伸ばす角度が法律で決まっていて、少しでもズレたら『助けたことにならない』と言われたら、あんたならどうする?」
店主は、使い古された布巾でグラスを磨きながら言った。 「角度がダメなら、別の道を探すしかないんじゃないのかい。正面からダメなら、裏からとかさ」
裏から。 佐藤は、懐にある結のメモを思い出した。 客のリスト。そこには、大河原の会社の重役や、石川議員の後援会の関係者の名前が、歪な文字で並んでいる。
「……違法収集証拠がゴミなら、別の『生きた証拠』を叩きつけるまでだ」
佐藤は酒を飲み干した。 喉を焼くアルコールの熱さが、冷え切っていた闘志に再び火を灯した。 法が密室の壁を壊せないなら、壁の内側にいる人間自身の声を、叫びに変えるしかない。
彼は店を出た。 夜の風は、冬の到来を予感させるほどに冷たかったが、佐藤の足取りは、先ほどよりもずっと確かなものになっていた。
第7話 完
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