第6話:資金と建物の提供者
冷暖房の完璧に効いた応接室は、皮肉なほどに静謐だった。 神崎の「寮」に漂っていた饐えた匂いとは無縁の、高価な白檀の香りが鼻を突く。佐藤は、ふかふかのソファに沈み込む自分の体が、ひどく場違いで汚れているように感じた。
「……ですから、佐藤刑事。我々は困っているんですよ」
向かいに座る男、東都不動産の専務・大河原は、磨き上げられた眼鏡を指で押し上げた。その横には、地元の有力議員である石川の秘書が、置物のように無表情で控えている。
「あの一帯のビルやマンションは、我々が管理していますが、入居者が中で何をしていようと、それは居住者のプライバシーです。公序良俗に反する行為があれば遺憾ですが、我々にそれを監視する権利も、義務もありません」
佐藤は、テーブルの上に結の「入寮契約書」のコピーと、神崎の口座へ流れた多額の不透明な資金記録を叩きつけた。
「売春防止法第13条。売春をさせる目的で、資金、土地、建物を提供した者は処罰される。神崎に活動資金を融通し、あの劣悪な管理物件をあてがったのは、あなた方だ」
大河原は、茶を一口啜り、さも退屈そうに息を吐いた。 「目的? 困りましたね。我々は、意欲ある若き起業家である神崎氏に、新規事業の資金を融資し、不動産を貸し出しただけだ。彼がその場所で、あんな不適切な『更生事業』をしていたなんて、夢にも思わなかった。我々もまた、彼の嘘に騙された『被害者』なんですよ」
「被害者……だと?」 佐藤の拳が震えた。 大河原の言葉には、血が通っていない。そこにあるのは、精巧に作り上げられた「善意の第三者」という名の仮面だ。彼らは直接女たちに触れず、直接金を奪わない。ただ、神崎という装置に油を注ぎ、分け前を合法的な「配当」や「家賃」として吸い上げている。
一方、NPOのシェルターに身を寄せた結は、真っ白なシーツの上で、震えが止まらない夜を過ごしていた。 窓の外には、都会の夜景が広がっている。あの灯りの中に、大河原や石川のような「立派な大人たち」が住んでいる。
「……結さん、眠れない?」 凛が温かいミルクを持って部屋に入ってきた。結は膝を抱えたまま、窓の外を指差した。
「凛さん、あそこに大きなビルが見えるでしょ? あの最上階で笑っている人たちが、神崎さんにお金を出してるんですよね」 「……そうね。この街のコンクリートの隙間には、そういう構造がこびりついているわ」
結は、自分の細い手首を見つめた。神崎に掴まれた跡が、紫色の痣になって残っている。 「私を抱いた男も、私を閉じ込めた神崎さんも、みんな怖かった。でも……一番怖いのは、私たちがどうなろうと、法律の条文をなぞって『私は関係ない』って言い切れる人たちかもしれない。あの人たちの世界には、私たちの匂いも、涙の熱さも、届かないから」
「届かせてみせるわ」 凛の声は、低く、硬かった。 「彼らは『知らない』ことで自分を守っている。なら、その無知が『未必の故意』であることを証明するしかない。佐藤さんも、今戦っているわ」
「いい加減にしろ!」 佐藤は立ち上がり、大河原に顔を近づけた。 「あんたの会社の経理記録。神崎からの家賃が、相場の三倍になっている。なぜだ? ただの賃貸なら、こんな額になるはずがない。これは『場所の提供』を知っていた対価、つまり売春収益の分配だろう!」
大河原の目が、一瞬だけ鋭く細まった。だが、すぐに余裕の笑みが戻る。 「……それは失礼な。あの物件はセキュリティが特殊ですからね。その付加価値ですよ」
石川の秘書が、静かに口を開いた。 「佐藤刑事。あまり無茶な捜査は、あなた自身の進退に響きますよ。我々の先生は、警察の予算委員会にも影響力がある。あなたが守りたいと思っている『彼女たち』も、あなたが職を失えば、誰が守るんですか?」
卑劣な脅し。 佐藤は、自分の喉の奥が砂を噛んだようにザラつくのを感じた。 目の前の男たちは、法律を「守るべき規範」ではなく、「身を守るための盾」として使いこなしている。売春防止法が、現場の女性や業者を罰することにばかり目を向け、その背後に流れる巨大な資本を野放しにしてきたツケが、ここにある。
「……この件は、必ず立件する」 佐藤は吐き捨てるように言い、応接室を出た。 背後で大河原たちの乾いた笑い声が聞こえた気がした。
外に出ると、冷たい雨が降っていた。 佐藤は雨に打たれながら、結のことを考えた。 「第13条……資金提供……」 条文を呟く。文字にすればわずか数行。だが、その数行の壁を崩すには、あまりにも巨大な権力が立ちはだかっている。
彼はポケットの中で、結が神崎の寮で密かに書き留めていた「客のリスト」と「神崎が電話で『上』と話していた内容のメモ」を強く握りしめた。
「善意の仮面、剥いでやるよ」
泥水が靴を濡らす。佐藤の瞳には、かつてない怒りの炎が宿っていた。 社会の最上層から滴り落ちる欲望が、最下層の女たちの命を蝕む。その連鎖を断ち切るための戦いは、まだ始まったばかりだった。
第6話 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます