第5話:業としての支配
「逃げようなんて、思わない方がいい。君のためだよ」
神崎の吐き出す煙草の煙が、狭いワンルームに淀んでいた。 結の目の前には、一枚の書面がある。それは「入寮契約書」と銘打たれているが、実態はただの奴隷契約だった。
「凛さんのところへ行くって? 自由になるって? ……結さん、現実を見なよ。君のスマホの未払い、消費者金融の延滞、全部うちに回ってきてる。俺が立て替えてあげたんだ。感謝してほしいくらいだね」
神崎は、結の顎を指先でクイと持ち上げた。彼の指からは、いつも通りの高級なサンダルウッドの香りがしたが、今の結にはそれが、腐った肉の臭いを隠すための死化粧のように感じられた。
「……借金なんて、頼んでません」 「頼んでなくても、事実としてある。ここは『寮』だ。安全を提供し、食事を出し、仕事も回す。その代わり、完済するまではここを出られない。売春防止法第7条、知ってるだろ? 人を困惑させて売春をさせてはいけない。でもさ、俺は君を『困惑』させてなんていない。むしろ『救済』しているんだ。そうだろう?」
神崎は結の耳元で低く笑った。結は全身に鳥肌が立つのを感じた。 「寮」と呼ばれたその部屋は、窓が防犯格子で覆われ、ドアには内側から開けられない特殊な鍵が取り付けられていた。生活音を殺すための安っぽい吸音材が壁に貼られ、空気はどこか埃っぽく、死んでいる。
「……踏み込むぞ。今日こそ『業』の証拠を掴む」
佐藤は、作業員の服に着替え、マンションの裏口に潜んでいた。 売春防止法第12条。人を住まわせ、売春をさせることを「業(なりわい)」とする行為。これは、単純な売春よりもはるかに重い罰則が設けられている。だが、立件するには「管理・支配・継続性」の三本柱を証明しなければならない。
「佐藤さん、無茶ですよ。本職がバレたら、あいつら何をするか……」 「黙ってろ。あそこに、あの娘がいるんだ」
佐藤は通信機を切ると、清掃業者を装って建物内に侵入した。 廊下に漂う、独特の饐(す)えた匂い。複数の部屋から漏れ聞こえる、機械的なベッドの軋みと、女たちの抑揚のない声。それはもはや「恋愛」の真似事ですらない、剥き出しの工場の音だった。
佐藤は305号室の前に立った。ここが、神崎が結を閉じ込めている部屋だ。 彼は小型のカメラを仕込んだバインダーを抱え、ドアの隙間に神経を集中させた。
「……次の客だよ。準備して」
神崎が去った後、結は鏡の前に座った。 頬を叩き、赤みを出す。唇にどぎつい紅を塗る。自分の顔が、自分のものではない何かに変わっていく。 かつて凛に言われた「搾取」という言葉が、頭の中でリフレインする。
(私は、部品だ。神崎という機械の一部……)
その時、玄関のチャイムが鳴った。 「失礼します、排水管の点検です」
聞き覚えのある、低く掠れた声。結は心臓が止まるかと思った。 ドアを開けると、そこには作業着姿の佐藤が立っていた。
「……佐藤、さん」 「……」
佐藤は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷徹な捜査員の顔に戻った。彼は部屋に足を踏み入れると、手早く室内の様子を確認し始めた。 壁の吸音材、机の上に置かれた「売上管理表」、そして、隠しカメラのように不自然な角度で設置されたWEBカメラ。
「結、よく聞け。今、この部屋の状況を記録している」 佐藤は声を潜めて言った。 「これが『業』としての証拠だ。君を住まわせ、行動を制限し、売上を管理している。これなら神崎を第12条で引っ張れる」
「でも、そしたら私は……」 「君は証人だ。俺が守る。必ずだ」
その時、廊下から革靴の足音が近づいてきた。 神崎だ。
「……点検? そんなの聞いてないな」
ドアが勢いよく開いた。神崎は、作業着姿の佐藤と、怯える結を交互に見た。 一瞬の静寂。 神崎の目が、佐藤の腰回りに不自然な膨らみ――警察官が持つ無線や装備の形――を捉えた。
「……なんだ、ネズミが紛れ込んでたか」
神崎の顔から、営業スマイルが消えた。代わりに、冷徹な暴力の気配が部屋を支配した。 「警察の皆さん。第7条も12条も、そんなに簡単に立件できると思うなよ。彼女たちは『好きで』ここに住んでいる。『自発的に』お金を返している。そうだよな、結さん?」
神崎は結の腕を掴み、力任せに引き寄せた。 「言えよ。ここは天国だって。俺に救われたって」
結は、痛みに顔を歪めながら佐藤を見た。 佐藤の瞳には、法を執行する者の使命感と、一人の人間を救いたいという祈りが混ざり合っていた。
「……私は」 結の声が震える。 「私は……ここから、出たい。あなたの香水の匂い、もう、嗅ぎたくない!」
結の叫びが、狭い「寮」に響いた。 佐藤が踏み出し、神崎の腕を掴んだ。 「売春防止法違反。現行犯で行きたいところだが……まずはこの娘を保護させてもらうぞ、神崎」
「できるかな? 証拠が裁判で維持できるかどうか、楽しみにしてるよ」
神崎の嘲笑を背に、佐藤は結を抱えるようにして部屋を飛び出した。 外は雨が降り始めていた。冷たい雨粒が、結のどぎつい口紅を濡らし、溶かしていく。
「……ごめんなさい、佐藤さん」 「謝るな。まだ、終わってない」
パトカーのサイレンが遠くから近づいてくる。 だが、佐藤は知っていた。神崎のような男を「業」として完全に断罪するには、まだ決定的な「何か」が足りないことを。
結の手は、冬の枯れ枝のように冷たく、震え続けていた。
第5話 完
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