第4話:更生か、搾取か

夕暮れ時、新宿の喧騒を少し離れた路地裏。結は自販機の横にしゃがみ込み、冷えた指先を缶コーヒーの熱で温めていた。


「それ、少しは温まるかもしれないけど、お腹は膨れないわよ」


凛とした、けれどどこか温かみのある声が頭上から降ってきた。顔を上げると、そこにはグレーのウールコートを羽織った女性、九条凛が立っていた。彼女の手には、ほかほかと湯気を立てるコンビニの紙コップ。結に差し出されたのは、コーンポタージュだった。


「……何の用ですか。警察なら、もう話しました」 結は警戒心を剥き出しにして、ポタージュを受け取らずに立ち上がった。


「警察じゃないわ。私はNPO法人『あかり』の九条。佐藤刑事から、あなたのことを聞いたの」 「佐藤さん……余計なことを」


結は背を向けて歩き出そうとしたが、凛の声は逃がしてくれなかった。 「ねえ、結さん。売春防止法って、何のためにあるか知ってる?」


結は足を止めた。法学部中退の知識が、反射的に答えを導き出す。 「……社会の良俗を守るため。女性の純潔を守るため。お題目は立派ですよね」


「半分正解、半分は古い考えね。あの法律には、もう一つの柱がある。それは『保護更生』よ。売春をせざるを得ない事情を抱えた女性を、国が保護し、社会復帰を助ける。それが、あの法律が生まれたときの、わずかな『善意』だった」


凛は隣に並び、ゆっくりと歩き出した。 「でも、今のシステムはボロボロ。婦人保護施設は老朽化し、予算も削られ、そこに行けば『更生』という名の下に管理される。あなたはそれを嫌がって、神崎のような男のところに逃げ込んだんでしょ?」


結は、胃の奥が焼けるような感覚を覚えた。 「更生? 笑わせないでください。更生して、何になるんですか? 時給1000円のバイトを掛け持ちして、借金に追われて、スーパーの半額弁当を奪い合う生活に戻れってことですか?」


結は、コートのポケットの中で封筒を握りしめた。神崎から渡された、今日の「報酬」だ。 「あの法律が私を守ってくれましたか? 私が家賃を払えなくて夜の街を彷徨っていたとき、法律は『売春は禁止だ』って看板を掲げて私を睨みつけていただけじゃないですか!」


結の声が、人通りの少ない路地に響き渡った。


「私を今、この瞬間救っているのは、法律でも更生プログラムでもない。この封筒に入っている、汚れたお金なんです。お腹を満たしてくれるのは、善意のポタージュじゃなくて、現ナマなんです」


凛は足を止め、悲しげに結を見つめた。 「そのお金は、あなたの命を削り取った代償よ。神崎はあなたを救っているんじゃない。あなたの絶望を換金しているだけ。あなたは、自分の価値を自分でお金に変えているつもりかもしれないけど、実際にはシステムに搾取されているの」


「搾取だろうが何だろうが、生きていなきゃ始まらない!」 結は叫んだ。涙が溢れそうになり、上を向いた。 「法律が言う『更生』って、要するに『清く正しく貧しくいろ』ってことでしょ? 私、もうそんなの嫌なんです。綺麗な言葉でお腹は膨れない。凛さん、あなただって、綺麗な服を着て、立派な仕事をして、私のことを見下してるじゃないですか」


凛は静かに一歩近づき、結の震える手を、そっと両手で包み込んだ。 凛の手は、驚くほど温かかった。それと同時に、結は凛の手のひらに、古い火傷のような、デコボコとした質感を感じ取った。


「見下してなんていない。私も、そこにいたから」


凛の瞳が、街灯の光を反射して強く光った。 「私も、売春防止法という壁に背中を預けて、夜を凌いでいた一人だった。警察に補導され、施設に入れられ、そこにある『更生の押し付け』に反吐が出た。だからこそ、私は法律を変えたいと思ってる。更生させるためじゃなく、あなたが『選択』できるようにするために」


結は、凛の手から伝わる微かな震えに気づいた。この女性もまた、自分と同じ地獄を歩んできたのだ。


「今の売春防止法は、あなたを犯罪者予備軍として扱う。でも、本当は、あなたがなぜそこに立っているのかを問い、生活の基盤を保障することこそが、法の本来の精神であるべきなのよ」


結は、ポタージュを受け取った。紙コップ越しに伝わる熱が、冷え切った心臓に少しずつ染み込んでいく。


「……それでも、明日になれば、またお金が必要なんです」 結は弱々しく呟いた。


「わかってる。だから、まずは私のところに来て。更生なんてしなくていい。ただ、温かいご飯を食べて、誰にも触られずに眠れる場所があることを知ってほしいの。法律があなたを見捨てても、私たちは見捨てない」


ポタージュを一口啜る。甘くて、濃厚で、少しだけしょっぱかった。 結の頬を伝った涙が、コップの中に落ちて波紋を作った。


「お金があれば救われると思っていた。でも……こんなに温かいものを飲んだのは、いつぶりだろう」


結の感情が、決壊したダムのように溢れ出した。彼女は、見知らぬ支援者の腕の中で、子供のように声を上げて泣いた。新宿の夜の匂い、排気ガスと湿った空気の中に、コーンの甘い香りが微かに混ざり、消えていった。


第4話 完


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