第3話:18歳の境界線(児童買春)

神崎の「ゲストハウス」は、今日も線香のような芳香剤の匂いが充満していた。


結は、隣の部屋から聞こえる少女の笑い声に耳を傾けていた。その少女、アリス(もちろん源氏名だ)は、最近入ってきたばかりで、いつも甘いストロベリー味の電子タバコを吸っていた。その香りは、この薄暗い廊下にはあまりにも不釣り合いな、子供じみた甘ったるさだった。


「結さん、これ、あげる。お菓子」 休憩中、アリスが差し出してきたのは、コンビニの知育菓子だった。 「……ありがとう。アリスちゃん、いくつ?」 「秘密。でも、あとちょっとで自由になれるんだ」


そう言って笑った彼女の、幼い頬の産毛が、部屋のLEDライトに透けて見えた。それが、結が見たアリスの最後の笑顔だった。


その日の夜、マンションの廊下に怒号と、激しい足音が響き渡った。


「警察だ! 動くな!」


結がドアの覗き穴から見たのは、無機質に光る手錠と、うなだれる中年男性の姿。そして、震えながら毛布にくるまり、女性警官に抱えられていくアリスの姿だった。


結の心臓は、耳の奥で太鼓のように鳴り響いた。 (私も……私も捕まるの?)


ガタガタと震える指でドアの鍵をかけ、息を潜めてベッドに潜り込んだ。だが、何十分待っても、結の部屋のドアが蹴破られることはなかった。外の喧騒は、潮が引くように静まり返っていった。


翌日。結は、署に呼び出されたわけでも、指名手配されたわけでもなかった。 ただ、テレビのニュースが、昨夜の事件を淡々と報じていた。


『児童買春・ポルノ禁止法違反の疑いで、会社員の男(48)を逮捕。被害者は17歳の少女……』


「……どうして、あのお客さんだけ捕まったんですか」


結は、神崎に詰め寄った。神崎は、アリスの私物が残されたままの部屋で、悠然とコーヒーを啜っていた。部屋にはまだ、あのストロベリーの残り香が漂っている。


「彼女、17歳だったんだよ。年齢を偽って登録してた」 神崎は面倒そうにカップを置いた。 「18歳未満なら『児童』だ。児童買春は、買った側が即座に逮捕される。売春防止法とは、法律の『牙』の鋭さが違うんだよ」


「でも、私もあそこで仕事をしていました。私も、同じことを……」 「結さん」 神崎は立ち上がり、結の耳元で囁いた。その吐息は氷のように冷たかった。 「君は24歳だ。大人の男女が合意の上ですることに、警察は口出しできない。売春防止法は、君たちを『犯罪者』とは呼ぶが、罰則は設けていない。だから、君の相手をした客たちは、今頃家で笑ってテレビを見てるよ」


結は、自分の指先が急速に冷えていくのを感じた。 「あと……たった数年、私が若ければ」 「そう。あと数年若ければ、君を抱いた男たちは全員前科者だ。でも、今の君はただの『自己責任』の大人だ。法律が守るべき『児童』という聖域の外側にいるんだよ」


神崎の笑い声が、結の頭の中で反響した。


「……納得いかないか」


マンションの裏口で、佐藤が待っていた。結は逃げようとしたが、佐藤の悲しげな眼差しに足を止めた。 「あのアリスって娘、保護されました。彼女は被害者として扱われます。でも……」 佐藤は、警察車両のボンネットを拳で軽く叩いた。 「君を買った男たちは、今日もまた別の部屋で別の女を探している。俺たちが児童買春法で男を引っ張れるのは、相手が『18歳未満』だと証明できた時だけだ。18歳になった瞬間に、魔法が解けるように男たちの罪は消えてなくなる。これが、この国の『境界線』だ」


結は、自分の腕を強く抱きしめた。 「魔法なんて、素敵なもんじゃない……」 彼女の声は、震えていた。 「17歳は守られて、18歳になったら『自己責任』。数ヶ月の差で、男たちのしたことが犯罪になったり、ただの自由恋愛になったりするなんて……そんなの、おかしいですよ。あのアリスちゃんだって、お金が必要だったのは私と同じだったのに」


「ああ、おかしいさ」 佐藤は空を見上げた。鉛色の雲が、重く垂れ込めている。 「児童買春法は『子供を守る』ために作られた。だが、売春防止法は『道徳』のために作られた。そこには、女性を守るという意志が、今の時代に追いついていないんだ」


結は、ポケットの中にあった知育菓子のラムネを一つ、口に放り込んだ。 人工的な甘さが舌の上で弾け、急激に苦くなった。 17歳のアリスは、施設へ行く。 24歳の結は、今夜もまた、別の男に抱かれるために部屋を掃除しなければならない。


「私、もうすぐ誕生日なんです」 結がポツリと言った。 「おめでとう、とは言えないな」 佐藤の言葉が、冷たい雨のように結の肩に降り注いだ。


18歳という、あまりにも細く、脆い境界線。 その線のあちら側とこちら側で、地獄のルールは劇的に書き換えられる。 結は、マンションを見上げた。窓から漏れる明かりが、まるで獲物を待つ獣の目のように、暗闇の中で光っていた。


第3話 完


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