第2話:周旋の罠

「もっと効率よく稼ぎたくない? 結さんなら、今の倍は固いよ」


スマホのスピーカーから漏れる神崎の声は、高級な柔軟剤のように実体がないのに、妙に鼻につく甘さがあった。


結はワンルームマンションの、湿気で端が剥がれかけた壁を見つめながら、受話器を握りしめた。手元の計算機には、家賃、公共料金、そして奨学金の返済額。合算された数字は、彼女の「パパ活」の稼ぎを嘲笑うように上回っている。


「……倍、ですか」 「そう。個人でやるのは危ないし、移動の時間も無駄でしょ? うちが提携してる『ゲストハウス』を使えば、客はこちらで回す。君はただ、そこにいてくれればいい。場所代は引くけど、回転率が違うから」


『場所代』。その言葉が、結の脳裏で警報のように鳴った。けれど、空っぽの冷蔵庫が立てる低い唸り声が、その警告をかき消す。 「……行きます。その、ゲストハウスに」


神崎が小さく、満足そうに喉を鳴らす音が聞こえた。それは獲物を網に追い込んだ蜘蛛の、微かな振動に似ていた。


「……真っ黒だな」


佐藤は、張り込み用のバンの中で冷え切ったあんパンを齧っていた。窓の外、港区の片隅に立つ築古の高級マンション。その一室に、不自然なほど多くの男たちが吸い込まれては、一時間足らずで出てくる。


「佐藤さん、あの一室、名義は神崎の関連会社ですが、表向きは『レンタルオフィス』です。あいつら、あくまで場所を貸しているだけだって言い張るつもりですよ」


後輩の言葉に、佐藤はパンを噛みしめたまま低く唸った。 売春防止法第11条。売春の場所を提供した者は罰せられる。だが、「場所の提供」を立件するには、そこで売春が行われていることを管理者が「知っていて、かつその目的で提供した」という明確な証拠が必要だ。


「『部屋を貸した相手が勝手に不貞行為をしていただけだ、我々は関知していない』。そう言われりゃ、それまでだ」


佐藤の視界の中で、一台のタクシーが止まった。降りてきたのは、どこか怯えたような足取りの、けれど場違いに華やかなコートを着た若い女。結だった。


「あの娘……第1話の時の」 佐藤は思わず身を乗り出した。彼女が握りしめているスマホの画面が、夜の闇の中で青白く彼女の表情を照らしている。その顔には、欲望よりも、ただひたすらな「必死さ」が張り付いていた。


「行くぞ。今日は踏み込まない。だが、外堀を埋める」


マンションの302号室。 ドアを開けた瞬間、結を襲ったのは、鼻を突く人工的な芳香剤の匂いと、どこか饐(す)えたような、古い畳の湿った匂いだった。


「今日からここを使って」


待ち構えていた神崎は、仕立てのいいスーツのポケットに手を入れ、顎で奥の部屋を指した。 「鍵はスマートロック。予約が入ったら通知が行く。君はここで待機。客が来たら『おもてなし』をする。シンプルだろ?」


結は、カーテンの閉め切られた薄暗い部屋を見渡した。 ベッド。不自然に大きな鏡。そして、棚に整然と並べられた避妊具とタオル。


「これって……お店じゃないんですか? 私、こういうのはちょっと」 「店じゃない。ここはただのマンションの一室だ」 神崎は結の肩に手を置いた。指の圧力が、細い鎖のように食い込む。 「君はここで『自由な交際』をしているだけ。僕らはその場所を貸しているだけ。……ねえ結さん、捕まりたくないんだろ? だったら、俺たちの言う通りにするのが一番安全なんだ。法律の隙間は、俺たちが一番よく知っている」


結は、神崎の香水の匂いに吐き気を覚えた。それは高級なサンダルウッドの奥に、腐った果実のような臭いが混ざっている気がした。


「さあ、最初の『お客様』が来るよ」


神崎が部屋を出ていくと、静寂が結を包み込んだ。 壁一枚隔てた隣の部屋からも、微かな話し声と、ベッドが軋む音が聞こえてくる。


(ここに来れば、もっと稼げる。捕まらない。大丈夫)


自分に言い聞かせる結の心臓は、壊れた時計のように不規則に跳ねていた。やがて、玄関の電子錠がガチリと解除される音が響く。


マンションの影で、佐藤は結が出てくるのを待っていた。 一時間、二時間。出てくる男たちの顔は、どれも「事後」の気だるさと、法を犯していないという傲慢さに満ちている。


ようやく現れた結は、入る時よりもさらに肩を落とし、幽霊のように街灯の下を歩いていた。その手には、神崎から渡されたであろう数枚の万札が握られている。


「……おい」


佐藤は声をかけた。結はビクッと肩を震わせ、バッグを抱きしめた。 「警察です。ちょっと、話を聞かせてくれないか」


結の瞳に、明確な恐怖が走る。 「……私、捕まるんですか? でも、何も悪いことは。これは、ただの」


「捕まえに来たんじゃない。……君を助けたいんだ」


佐藤の言葉は、夜の風に流された。結は悲しげに首を振った。 「助ける? どうやって? 警察は、あそこが何をしてるか知ってるのに、何もできないんでしょ? 法律は、あそこを潰してくれないんでしょ?」


結の叫びは、鋭い針のように佐藤の胸を刺した。 「……場所を提供している証拠が必要なんだ。君の証言があれば」


「証言したら、私はどうなるんですか? 明日の家賃は? 警察が払ってくれるんですか?」


結の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それはアスファルトに落ちて、すぐに黒い染みになった。 「あそこに行けば、お金がもらえる。捕まらない。……それが、私の今の正義なんです。放っておいてください」


彼女は背を向け、走り去った。 佐藤は、その背中を追いかけることができなかった。


手の中にある警察手帳の重みが、今はただの虚しい鉄の塊に感じられた。 売春防止法第11条。場所を提供した者は処罰される。だが、その「場所」に縋らなければ生きていけない人間がいる限り、法はただの冷たい壁でしかない。


「佐藤さん、神崎のサイト、サーバーを海外に移したようです。さらに追跡が難しくなりました」


無線から流れる声。 夜の街の湿った匂い、遠くで鳴るサイレン、そして少女の涙の温度。 五感が捉えるすべてが、佐藤に敗北感を突きつけていた。


神崎という「周旋者」が仕掛けた罠は、法の網の目よりも細かく、そして深かった。


第2話 完


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