『グレーゾーンの境界線 ー売春防止法第3条ー』
春秋花壇
第1話:禁止された不可罰
湿ったアスファルトの匂いが、安物のパンプスの底から伝わってくる。
六本木の路地裏、結はスマホの画面を何度もタップした。バッテリーは残り12%。液晶に指紋がべったりとつき、それが街灯の光を反射して、自分の疲れ果てた顔を歪ませて映し出す。
「……よし」
SNSのダイレクトメッセージが届く。 『今から会えますか? 3。条件通りで』 「3」という数字は、彼女の家賃の半分であり、今月を生き延びるための命綱だ。結は、胃の奥がキュッと縮まるのを感じた。罪悪感というよりは、空腹に近い。実際、今日の食事はコンビニのスティックパン一本きりだった。
「売春じゃない。これはパパ活。自由恋愛の延長」
結は自分に言い聞かせるように、独り言を飲み込んだ。法学部を中退した彼女の頭には、皮肉にも知識だけがこびりついている。売春防止法第3条。「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」。 条文は厳格だ。けれど、この国の法律は不思議な優しさ、あるいは無関心を持っている。売る側も買う側も、ただ「した」だけでは捕まらない。罰則がないのだ。
「悪いことしてるわけじゃない。法律が、捕まえないって言ってるんだから」
彼女は冷たくなった指先をコートのポケットに突っ込み、待ち合わせのホテルへと歩き出した。
同じ頃、麻布署の生活安全課。刑事の佐藤は、デスクのパーテーションに貼られた相関図を睨みつけていた。タバコの煙を吸いすぎたような、枯れた咳が喉を突く。
「……また逃げられたか」
目の前には、神崎という男が運営する「交際クラブ」の規約のコピーがある。 『当クラブは男女の健全な出会いを提供する場であり、売買春行為を一切禁止します。発覚した場合は除名となります』
「どの口が言ってやがる」
佐藤は吐き捨てるように呟いた。神崎の裏アカや隠語だらけのサイトでは、露骨な「対価」の交渉が飛び交っている。しかし、一歩表に出れば彼らは「自由恋愛のサポーター」を気取る。
「佐藤さん、深追いしすぎですよ」 後輩の刑事が缶コーヒーを差し出してきた。 「今の法律じゃ、現場を押さえたところで『好きでやってます』『小遣いをもらっただけです』って言われたらおしまいです。場所を提供してる証拠も、組織的な周旋の裏付けも、あいつらは完璧に消してる」
佐藤はコーヒーのプルタブを弾いた。金属音が高く響く。 「禁止されてるのに罰則がない。そんな矛盾した隙間に、神崎みたいな奴らが巣食ってるんだ。あいつらは、女たちの絶望を『自由意思』という言葉でラッピングして売り捌いてる。それが許せないんだよ」
コーヒーは苦く、喉を焼くように熱かった。
ホテルの部屋の空気は、不自然なほど清潔で、無機質だった。 エアコンの微かな駆動音と、加湿器から漏れる水の音。相手の男は、どこにでもいそうなスーツ姿の中年だった。名は名乗らない。結も聞かない。
「……これでいいかな」
ベッドの上に置かれた封筒。中身を確かめる時、指先が微かに震える。万札のインクの匂いが鼻をついた。かつては汚いものだと思っていたその匂いが、今は安堵の香りとして結の脳を麻痺させる。
「ありがとう……ございます」
結の声は掠れていた。男の手が肩に触れる。その指の湿り気、タバコと加齢臭が混ざったような、生理的な嫌悪感を呼び起こす体臭。結は目を閉じた。
(これは仕事。これは契約。私は被害者じゃない。自分の意志でここにいる。だって、捕まらないんだから。私は悪いことなんて、何一つ……)
奥歯を噛み締めると、口の中に鉄の味がした。無意識に唇を噛み切っていた。 シャワーから漏れる水滴の音が、秒針のように時を刻んでいる。
数時間後、結はホテルの回転ドアを抜け、夜風にさらされた。 冷気で肌が粟立つ。ついさっきまで触れられていた場所が、急激に冷えていく。彼女は逃げるように駅へ向かった。
雑踏の中で、ふと足を止める。 パトカーの赤色灯が遠くで回っていた。一瞬、心臓が跳ね上がる。警察が来る。私を捕まえに来る。……いや、違う。
「私、捕まらないんだった」
結は自嘲気味に笑った。 この国において、彼女のしていることは「禁止」されているが、存在しないことと同じだ。誰も彼女を止めないし、誰も彼女を罰しない。ただ、社会という巨大な機構が、彼女を透明な存在として扱っているだけ。
「法が守ってくれないなら、お金を守るしかないじゃない」
彼女はバッグの中の封筒を強く握りしめた。硬い紙の感触が、手のひらに食い込む。
一方で、佐藤は署の屋上で、夜の街を見下ろしていた。 煌びやかなネオンの海。その光の数だけ、神崎のような捕まえられない悪意と、結のような罰せられない絶望が潜んでいる。
「第3条……か」
佐藤は夜空に煙を吐き出した。 「『してはならない』と書くだけで、誰も救えない法律に何の意味がある」
刑事の悔恨と、女の諦念。 二人の視線が交わることはないが、同じ「法の空白」という名の闇が、二人を等しく飲み込んでいた。
結は再びスマホを開く。 新しいメッセージ。新しい「パパ」。 彼女は、冷え切った指で返信を打ち込んだ。
『明日の夜、空いてます。場所はどこにしますか?』
街の喧騒にかき消され、彼女の良心が軋む音は、もう誰にも聞こえなかった。
第1話 完
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