第五章「割り勘で終わる戦争」
五年が過ぎた。
王都の景色は、かつての煌びやかさを失っていた。
領土の一部は割譲され、軍の規模は三分の一に縮小された。
凱旋式典のような派手な祭りはもう行われず、人々は地味な服を着て、慎ましく暮らしている。
一見すれば、この国は衰退したように見えるかもしれない。
だが、周辺諸国の認識は違っていた。
隣接する軍事大国も、南方の通商連合も、この小さくなった王国を決して侮らず、むしろ不気味なほどの沈黙を守っている。
理由は二つある。
一つは、国境の最前線に「彼」がいるからだ。
辺境守備隊総監、ガランド。
彼は中央から遠ざけられたが、その武名が錆びついたわけではない。
むしろ、「あの英雄が国境に張り付いている」という事実そのものが、周辺国にとっては悪夢のような重圧(プレッシャー)となっていた。 うかつに手を出せば、眠れる獅子を起こすことになる。
かつて大陸を震え上がらせた「暴力の化身」が、今は静かにこちらを睨んでいる――その恐怖が、最強の防壁となっていた。
そしてもう一つの理由は、王都にいる「彼」が作り上げた、新しい牙だ。
街のパン屋には、香ばしい匂いが漂っていた。
黒板に書かれた文字は、こうだ。
『白パン一つ 銅貨三枚』
誰もが毎日パンを買える、安定した経済。
その余力は、かつてのような「豪華なパレード」ではなく、地味だが実用的な分野へ注ぎ込まれていた。
英雄に頼らずとも兵士が扱える、規格統一された新型魔導銃の開発。
経済的な信用を背景にした、通商連合との不可侵条約。
一人の天才に依存しない、「システムとしての軍事力」。
国は縮小したが、その中身は鋼のように硬く、研ぎ澄まされていた。
「……見ろ、あの男だ」
「『吸血鬼』レオンだ」
大通りを歩くレオン・ハーゼンの背中に、今日も民衆からの冷たい視線が突き刺さる。
増税と改革の断行者。英雄を追い出した悪党。
だがレオンは、その悪名を誇りのように纏い、表情一つ変えず歩を進める。
誰かが泥を被らなければ、この「鋼の国」は作れなかったのだから。
レオンが足を止めたのは、路地裏にある一軒の安食堂だった。
看板の塗装は剥げかけているが、中からは活気ある声が聞こえる。
レオンは迷わず扉を開けた。
「遅いぞ、レオン」
店の一番奥。
そこに、巨大な岩のような男が座っていた。
辺境守備隊総監、ガランド。
黄金の鎧はない。
くたびれた亜麻色の服を着て、顔には辺境の日差しと砂埃が刻んだ深い皺がある。
だが、その瞳の奥にある光は、以前よりも鋭く、そして静かだった。
「仕事が長引きましてね。……外交官たちがうるさいんですよ。あなたがあまりに睨みを利かせるものだから、『隣国が怯えて交渉にならない』と」
「ふん。俺はただ、昼寝のついでに外を眺めてるだけだ」
ガランドは定食の大盛りを平らげながら、ニカッと笑った。
レオンは向かいの席に座り、店主に同じものを注文した。
「それに、最近の若い兵士は優秀だ。俺が剣を抜くまでもない」
「ええ。英雄がいなくとも戦える軍を作りましたから。……金はかかりましたが」
「全くだ。おかげで俺の給料は据え置きだ」
軽口を叩き合う二人の間に、かつてのような殺気はない。
あるのは、背中を預け合う戦友のような信頼だけだ。
ガランドが国境で敵を威圧し、レオンが王都で国力を練り上げる。
「暴力」という名の抑止力と、「信用」という名の兵站。
場所も、役割も違う。
だが、この二人が両輪となって、今の王国を支えているのだ。
「俺は、国を救ったと思っていた」
ふと、ガランドが独り言のように呟いた。
彼は自分の大きな掌を見つめる。
「だが、剣だけじゃ守れないものがある。……それを、お前に教わった気がするよ」
「買い被りですよ。私はただ、あなたの剣が折れないように、鞘(さや)を整えたに過ぎません」
レオンは眼鏡を外し、少しだけ苦笑した。
「あなたが睨んでいるから、他国は攻めてこない。だから私は、安心して国内を締め上げられる」
「俺が前線にいるから、お前は後ろで悪党になれる、か」
ガランドは愉快そうに笑い、コップの水を飲み干した。
「いいコンビだ。……嫌われ者同士な」
運ばれてきた定食。
固いパンと、薄いスープ。
少しの肉。
かつての祝宴とは比べ物にならないほど質素な食事。
だが、今の二人にとっては、これが最高の贅沢だった。
嘘も、虚飾も、未来への借金もない。
二人がそれぞれの戦場で守り抜いた、確かな「平和の味」がした。
食べ終え、席を立つ時。
ガランドがふと、財布を取り出そうとした。
「今日の昼飯は? 久しぶりだ、俺が……」
言いかけて、ガランドは止まった。
そして、レオンの顔を見て、ニヤリと笑う。
レオンもまた、小さく笑みを浮かべていた。
英雄に奢らせてはいけない。
それは借りを作ることになる。
実務家が奢る必要もない。
それでは対等ではない。
二人は、互いに違う武器で国を守る、対等な守護者なのだから。
「割り勘ですよ、英雄殿」
二人は銅貨をテーブルに置く。
チャリン、と重なったその音は、かつての断頭台のような危うい響きではない。
地に足のついた、揺るぎない「国家」の音だった。
店を出ると、風が吹いていた。
決して華やかではないが、誰もが安心して呼吸できる、穏やかな風だ。
勝った戦争の代金は、もう払い終えた。
二人はそれぞれの戦場へ――ガランドは国境という名の最前線へ、レオンは執務室という名の最前線へと、背を向けて歩き出した。
(了)
『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』~勝った戦争は、誰が払うのか~ 早野 茂 @hayano_shigeru
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