第三章「数字は嘘をつかない」
国債の発行から一ヶ月。
王都は、奇妙な熱病に浮かされていた。
市場には英雄の顔が刷られた証券と金貨が溢れ、人々は勝利の美酒に酔い続けている。
だが、酔いはいつか覚める。
そして覚めたとき、そこにあるのは頭痛と吐き気――すなわち、現実だ。
いつものパン屋。
一ヶ月前、笑顔で客を迎えていた恰幅のいい店主は、いまや別人のように痩せこけ、血走った目でカウンターに立っていた。
客が怒号を上げる。
「ふざけるな! 昨日は銅貨三十枚だっただろう!」
「すまねえ……小麦の仕入れ値がまた上がったんだ。これでも赤字なんだよ!」
店主が黒板に乱暴に書き殴った数字。
かつて「二枚」だったその場所には、いまや暴力的な数字が鎮座している。
『白パン一つ 銅貨五十枚』
理由は単純だ。
国債によってばら撒かれた金が市場に溢れ、貨幣価値が暴落した(インフレ)。
さらに悪いことに、敗戦国から「賠償」として安価な工芸品や衣類が大量に流入し、国内の職人たちが廃業に追い込まれている。
金はあるのに、物がない。
仕事がないのに、物価だけが上がる。
勝者は飢え始め、敗者が肥え始めている。
そして、その歪みを目ざとく見つけ、腐肉を食らうハイエナたちがいた。
王国財務府、特別監査室。
窓のない密室には、脂汗と、湿った古紙の匂いが淀んでいた。
「無礼だぞ、レオン・ハーゼン!」
バン! と机を叩き、唾を飛ばしたのは、王国有数の商家と繋がりを持つ貴族、ヴァルダー伯爵だった。
彼は豪奢な衣類に身を包んでいるが、その顔は焦りで引きつっている。
「私は兵站局への物資納入責任者だ! 貴様のような薄汚れた実務屋に、尋問される謂れはない!」
「尋問ではありません。確認です」
対するレオンは、表情一つ変えずに椅子に座っていた。
その手元には、分厚い輸送記録(ログ)の束がある。
「先日、あなたが手配した『北方戦線向け支援物資・小麦二千トン』についてです。報告書には『輸送中のトラブルにより全量廃棄』とありますね」
「そうだ! 不幸な事故だった!」
ヴァルダー伯爵はハンカチで額の汗を拭う。
「今年の北方は異常気象でな。長雨と湿気で、小麦がすべて腐ってしまったのだ。カビだらけの麦を英雄殿の部下たちに食わせるわけにはいかんだろう? だから泣く泣く廃棄した。……当然、その分の補填金は国に支払ってもらうぞ」
完璧な言い訳だった。
天候不順は不可抗力だ。誰も責められない。
――素人ならば。
レオンは静かに眼鏡の位置を直した。
「おかしいですね」
「何がだ!」
「数字です」
レオンは一枚の書類を伯爵の目の前に滑らせた。
「あなたが輸送を行ったとされる期間、北方の平均気温はマイナス五度。湿度は二十パーセント以下でした」
「な……?」
「この環境下で、乾燥処理された軍用小麦が、わずか五日の行程で『全量腐敗』する確率は、天文学的な低さです。カビが生えるどころか、凍りつくはずですが」
伯爵の目が泳ぐ。
「き、局地的な豪雨があったのだ! 私の馬車隊の上だけにな!」
「ほう。では、こちらは?」
レオンは次の書類を出す。
「馬車の積載記録です。廃棄したという地点から、あなたの私有倉庫までの『空荷のはずの馬車』の車輪痕跡(トレッド)深度。……泥の沈み込みが深すぎますね。計算上、満載時と同じ重量がかかっています」
レオンは淡々と、まるで明日の天気を読むように続けた。
「さらに、同時期に裏市場(ブラックマーケット)で、軍用規格の最高級小麦が大量に出回っています。価格は正規の三倍。……売り手は、あなたの義弟が経営する商会だ」
気温。重量。距離。市場データ。
それら全ての数字が、一点を指し示していた。
横流しだ。
この男は、国から補填金をせしめつつ、物資を裏で高値で売りさばき、二重の利益を得ようとしたのだ。飢える兵士と国民を尻目に。
「き、貴様……! たかが帳簿の数字で、私を断罪する気か! 私は貴族だぞ! 英雄ガランド将軍とも懇意にしている!」
伯爵は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
だが、レオンの声は冷え切っていた。
「ええ。あなたは英雄の知人でしょう。ですが――」
レオンは立ち上がり、伯爵を見下ろした。
「貴殿は『輸送中に腐敗した』と言った。ですが、気温、積載量、距離の数字は、それが物理的に不可能だと叫んでいる」
「ひっ……」
「消えた小麦は、どこへ行ったのです?」
レオンの背後に、近衛兵たちが音もなく現れる。
彼らの手には、すでに王家直筆の「資産差し押さえ命令書」が握られていた。
「勝利は分配されるものです。ですが、どさくさに紛れて私腹を肥やす者は、戦後処理(クリーニング)の対象だ」
伯爵の顔から色が消える。
脳裏をよぎったのは、先祖から受け継いだ広大な領地、王都の一等地に構えた屋敷、そしてそれらがすべて他人の手に渡る絶望的な光景だった。
腰が抜け、床に崩れ落ちる。
その見苦しい姿を見ても、レオンの眉一つ動かなかった。
翌日、ヴァルダー家は破産した。
隠匿されていた小麦はすべて押収され、市場に正規価格で放出された。
だが、それは焼け石に水だった。
一人の悪党を潰しても、経済の崩壊は止まらない。
市場の混乱は続き、パンの値段は高止まりしたままだ。
そして、レオンのこうした「強硬手段」は、当然ながら新たな敵を生む。
「財務官ごときが、調子に乗るなよ」
廊下ですれ違いざま、軍服を着た将校がレオンに吐き捨てた。
軍部。貴族。商人。
レオンが正しさを貫くたび、
国中の権力者が彼を敵視していく。
彼らは理解しない。
自分たちの贅沢や横暴が、国の寿命を縮めていることを。
レオンは執務室に戻り、独り、窓の外を見た。
夕闇に沈む王都。
その暗がりの中で、不穏な空気が渦巻いている。
「……そろそろ、限界か」
飢える民衆。
苛立つ軍部。
保身に走る貴族。
無数の火種が、たった一つの着火点に向かって吸い寄せられていく。
その中心にいるのは、言うまでもない。
――英雄ガランド。
彼が「次の戦争」を決断するまで、残された時間はあとわずか。
数字は、破局(カタストロフィ)へのカウントダウンを、無慈悲に刻み続けていた。
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