第二章「英雄の名声を、通貨に換算せよ」
三か月。
それが、王がこの国に与えた余命だった。
この九十日の間に財政を黒字化できなければ、英雄ガランドの主張通り、隣国への略奪戦争が始まる。
だが、今の国庫には、今日の晩餐のワイン代すら入っていない。
では、どうするか。
削減(カット)だけでは間に合わない。
金がないなら、刷るしかないのだ。
――「信用」という名の紙切れを。
「……本気か、レオン」
財務府の執務室。
英雄ガランドは、渡された一枚の羊皮紙をまじまじと見つめ、顔をしかめていた。
そこには、緻密な銅版画で描かれたガランド自身の肖像と、金箔で縁取られた額面、そして王家の紋章が刷り込まれている。
「本気です、英雄殿。あなたの顔を売ります」
レオンは事務的に答えた。
机の上には、刷り上がったばかりの証券の束が積まれている。
『第一回・英雄凱旋記念国債』
それが、レオンがひねり出した錬金術の正体だった。
「国民から金を借りるのか? 税を取るのではなく?」
「税など取れば、疲弊した民衆は暴動を起こします。ですが、これは違う。これは『投資』であり、何より『応援』です」
レオンは指を立てる。
「人々はあなたに熱狂している。その熱狂を、金に変えるんです。『この証券を買えば、英雄ガランドを支え、王国の復興に参加できる』――そう銘打って売り出せば、民衆は財布の紐を緩める。愛国心とは、最も集めやすい税金ですから」
皮肉な言い回しだった。
だが、ガランドは怒らなかった。
むしろ、自分の顔が刷られた証券を指先で弾き、ニヤリと笑った。
「俺の顔で国が救えるなら、安いもんだな」
「……ええ。あなたは高く売れますよ」
レオンは内心で舌打ちする。
こいつは、この紙切れが「未来への借金」であることを理解していない。
満期は十年。その時、この国に約束を守る力がある保証など、どこにもない。
だが、今は背に腹は代えられない。
毒を食らわば皿まで。英雄という劇薬を、骨までしゃぶり尽くすしかない。
レオンの読みは正しかった。
いや、正しすぎたと言っていい。
翌日から、王都の広場に設営された「国債販売所」には、長蛇の列ができた。
着飾った貴族が、見栄を張って大口の購入を申し込む。
商人が、将来の利権目当てに束で買っていく。
そして何より、貧しい平民たちが、なけなしの銅貨を握りしめて並んでいた。
「お父さんは、この戦争で死んだんだ」
「ガランド様のおかげで、敵が去ったんだもの」
「俺たちの国を守るためだ!」
彼らは、それが「借金の肩代わり」だとは知らない。
ただ、英雄の肖像が入った証券を、まるで聖なる護符のように大事に抱えて帰っていく。
財務府の金庫に、凄まじい勢いで金貨が還流していく。
一週間で、目標額の五割が集まった。
それは、戦時一年分の国家歳出に匹敵する、天文学的な額だった。
未払いだった傭兵への報酬、商人への違約金、魔導燃料代……火の車だった支払いが、次々と決済されていく。
執務室で、レオンは久しぶりに熱いコーヒーを飲んだ。
帳簿の数字が「赤」から「黒」へと変わり始めている。
いける。
これなら、略奪戦争など起こさずとも、国は回る。
――そう、確信した矢先だった。
「か、課長! 大変です!」
部下の官吏が、顔面蒼白で飛び込んできた。
手には一枚の請求書が握りしめられている。
「どうしました。またどこかの商会が値上げを?」
「違います! たった今、国庫から巨額の引き出しが行われました! 集まった国債の売上、そのほぼ全額です!」
「なんだと?」
レオンは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
決済印が必要なはずだ。
自分の許可なく、そんな巨額を動かせる人間など、この国には二人しかいない。
国王陛下か。
あるいは――。
「誰だ。誰が持ち出した」
「が、ガランド将軍です! 『凱旋式典の追加予算だ』と……!」
レオンの目の前が真っ暗になった。
あの戦争の化身が。
せっかく集めた「未来の借金」を、一瞬で溶かしたというのか。
王城前広場は、狂乱の只中にあった。
数日後に控えた「凱旋式典」の準備が進められている。
だが、その規模は、レオンが承認した予算案とは桁が違っていた。
広場を埋め尽くす極彩色のテント。
運び込まれる大量の酒樽、丸焼き用の家畜の山。
夜空を焦がすための魔法花火が、城壁のように積み上げられている。
それは式典ではない。
国一つを傾けるほどの、巨大な「祭り」だった。
「ガランドッ!!」
レオンは人混みをかき分け、指揮台の上にいる黄金の鎧を見つけ出した。
ガランドは、積み上げられた酒樽に腰掛け、部下たちに指示を飛ばしている最中だった。
「おう、レオンか! 見ろ、これなら国中の兵士が腹いっぱい食えるぞ!」
「ふざけるな!」
レオンは普段の冷静さをかなぐり捨て、英雄の胸倉を掴みかからんばかりに詰め寄った。
「これは国債の金です! 国民が、明日を削って差し出した金だ! それを、こんな……たった一晩の馬鹿騒ぎのために!」
「馬鹿騒ぎだと?」
ガランドの表情から、笑みが消えた。
彼はゆっくりと立ち上がり、レオンを見下ろす。その威圧感に、周囲の兵士たちが息を呑んだ。
だが、ガランドは怒鳴らなかった。
代わりに、広場の隅を指差した。
「見ろ、レオン」
そこには、作業に動員された兵士たちがいた。
彼らの服はボロボロで、頬はこけている。だが、その目は異様に輝き、運び込まれる肉や酒を、食い入るように見つめていた。
「あいつらは、七日間、まともな飯を食っていない」
「だから未払い給与を……!」
「金なんて渡しても、今の物価じゃパン一つ買えん! それに、金だけ渡して『解散、故郷へ帰れ』と言ってみろ。あいつらはどうなる?」
ガランドの声が低く、重く響く。
「あいつらは人殺しの技術しか持たない、飢えた獣だ。国への不満、戦友を失った悲しみ、将来への不安……それらが爆発すれば、あいつらは王都で暴れ出し、略奪を始める。誰も止められんぞ」
レオンは言葉を詰まらせた。
治安維持コスト。
暴動鎮圧リスク。
その数字が、脳裏を高速で駆け巡る。
「だから、“夢”を見せるんだ」
ガランドは言った。
「『俺たちの国は勝った』『俺たちは英雄なんだ』という、とびきりの夢をな。腹いっぱい食わせて、馬鹿騒ぎさせて、プライドを満たしてやる。そうすれば、あいつらは『誇り高い兵士』のまま、故郷へ帰れる」
英雄は、レオンの肩に分厚い手を置いた。
「祭りは浪費じゃない。これは、国を守るための『安すぎる経費』だ」
レオンはガランドの手を振り払うことができなかった。
悔しいが、理屈が通っている。
数万の兵士が武装解除前に暴動を起こせば、その被害額は国債の総額を遥かに超える。
この男は、それを本能的に理解しているのだ。
数字を使わない、野性の計算。
それが正しいと分かってしまうからこそ、レオンは歯噛みした。
「……あなたの勝利は、どこまで金を食うんですか」
「言っただろう。俺の顔で国が救えるなら、安いもんだと」
ガランドは再び笑い、作業に戻っていった。
その背中――黄金の鎧の隙間から、無数の古傷が覗いているのが見えた。
彼もまた、身を削り続けてきたのだ。
レオンには理解できない論理で。
危機は回避されたかもしれない。
だが、代償は確実に払わされる。
その日の夕暮れ。
レオンは帰り道に、あのパン屋の前を通った。
店主の笑顔は消えていた。
値札が書き換えられている。
『白パン一つ 銅貨五枚』
祭りの特需で物資が買い占められ、国債によって市場に金がばら撒かれた結果だ。
店主が黒板に書き込む、カツ、カツ、という乾いた音が、やけに大きく響く。
それは、祝宴の準備が進む王都の片隅で、静かに、しかし確実に鳴り響く、崩壊への警告の鐘だった。
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