『剣の届かぬ場所で、戦争は決まる』~勝った戦争は、誰が払うのか~

早野 茂

第一章「祝宴の翌朝、パンはまだ安い」

 王都の空は、憎らしいほどに晴れ渡っていた。

七日七晩続いた「勝利の祝宴」の余韻は、未だ朝霧のように街を覆っている。

路地裏には酔いつぶれた兵士が転がり、大通りには紙吹雪が積もり、どこかの酒場からは朝から勝利を祝う歌声が漏れ聞こえていた。


 大通りの一角にあるパン屋の店先も、例外なく明るい。

焼き立ての香ばしい匂いが漂う中、恰幅のいい店主が、客に向かって満面の笑みを浮かべている。


「へい、旦那! 今日も平和だねえ!」


 店主の声は弾んでいた。

客が銅貨をカウンターに置く。

チャリン、と軽快な音が響く。


「白パン一つ、銅貨二枚だ。持ってきな!」


 銅貨二枚。

それが、この国の「平和」の値段だった。

戦争が終わった。

憎き帝国を退け、我らが王国は勝ったのだ。

誰もが信じていた。

勝ったのだから、生活は豊かになる。

明日のパンも、明後日のパンも、変わらず安くて美味いはずだ、と。


 店主は空を見上げる。

「英雄様のおかげだなあ。ありがてえことだ」


 誰もが笑っていた。

王都は光に包まれていた。


 ――その「光」が届かぬ場所が、王城の北棟にある。


 王国財務府、戦時精算課。

分厚い石壁に閉ざされたその部屋には、歓声も、ファンファーレも届かない。

あるのは、静寂と、冷めきったコーヒーの苦い匂い。

そして――。


 カリ、カリ、カリ、カリ……。


 神経質なほど一定のリズムで紙を引っ掻く、ペン先の音だけだった。


「……計算が、合わない」


 呟いたのは、部屋の主であるレオン・ハーゼンだ。

かつて最前線で兵站(ロジスティクス)を指揮し、「数字で軍を動かす男」と呼ばれた元将校。

だが今の彼は、目の下に濃い隈を作り、インクの染みた指先でこめかみを揉む、ただの疲れた実務家だった。


 彼の執務机の上には、書類の山が築かれている。

比喩ではない。物理的に、彼の視界を塞ぐほどの「山」だ。

それらはすべて、今朝――祝宴が終わった直後に届いたものだった。


『傭兵団“鉄の牙”・未払い報酬請求書 ※督促状付き』

『王都商人ギルド・軍用物資納入遅延に伴う違約金請求』

『宮廷魔導師団・魔導燃料(高純度)追加購入費・後払い分』

『戦死兵ベルナール遺族・年金前渡し嘆願書』

『戦勝記念・英雄年金制度創設に関する請願書』


 三百通を超える、支払い要求書。

組織からの強硬な請求に混じり、生活困窮を訴える遺族の嘆願までもが、無慈悲に積み上がっている。


 レオンは一瞬だけ、その名前に目を留めた。

ベルナール。

見覚えはない。

だが、帳簿のどこかに、彼が消費した弾薬や糧秣(りょうまつ)――兵を生かすための食糧――の数字があることだけは分かった。

その数字が尽きたとき、彼は死んだのだ。


 レオンは一番上の請求書を手に取り、ため息と共に弾いた。

そこに添えられた手紙には、判で押したようにこう書かれている。


 『勝ったのだから、支払えるはずだ』


「……馬鹿な連中だ」


 レオンは独りごちる。

勝利とは、金が湧き出る魔法ではない。

むしろ逆だ。

勝った戦争ほど、金を食う。

祝宴の美酒も、英雄の鎧も、空を彩った魔法花火も、すべて誰かが代金を支払わねばならない。


 レオンは手元の帳簿に視線を落とした。

国庫残高の欄に記された数字は、赤いインクで塗り潰されている。

事実上の、ゼロ。

いや、未払い分を含めれば、国家予算の三年分に相当する赤字だ。


「どうやって払えと言うんですか……」


 その時だった。

静寂に沈んでいた執務室の扉が、乱暴に蹴破られたのは。


 バンッ!!


 蝶番が悲鳴を上げ、部屋の空気が振動する。

廊下から流れ込んできたのは、圧倒的な「熱」と「光」だった。


「おい、レオン! いるか!」


 大音声と共に現れたのは、豪奢な黄金の鎧に身を包んだ巨漢だった。

王国の英雄、ガランド。

敵将の首を挙げ、この戦争を終わらせた男。

彼の背後からは、廊下の窓越しに祝宴の歓声が流れ込んでくる。

彼はまさに、あの熱狂そのものを身に纏っていた。


 レオンは椅子から立つこともなく、冷めたコーヒーを一口啜った。


「ノックという文化をご存知ありませんか、英雄殿。修理費はあなたの報酬から引いておきますよ」

「細かいことは気にするな! それよりレオン、部下から不満が出ているぞ!」


 ガランドはドカドカと部屋に入り込み、書類の山を無造作に叩いた。


「退職金も、特別ボーナスもまだ振り込まれていない! 俺たちは命がけで国を守ったんだぞ。この扱いはなんだ!」 「扱いも何も、無い袖は振れません」


 レオンは淡々と返す。


「国庫は空です。あなたの凱旋パレードと、昨夜の宴会で、最後の金貨一枚まで使い切りました」

「あ?」


 ガランドは眉をひそめ、心底不思議そうな顔をした。

悪気はないのだ。彼は本気で理解していない。


「金がない? 何を言っている。俺たちは勝ったんだぞ」

「ええ、勝ちました。ですが、勝利の女神は金貨を産みません」

「なら――」


 ガランドはニヤリと笑い、腰に下げた剣の柄を叩いた。

金属音が、鋭く響く。


「奪えばいい」


 レオンのペンが止まった。


「……なんと?」

「隣の小国には、まだ金があるだろう。帝国側の敗残兵も逃げ込んでいるらしい。追撃の名目で攻め入り、物資を徴発すればいい」


 ガランドの声には、一片の迷いもなかった。

それは脅しではない。彼の中にある、純粋な「国家再建の正論」だった。

金がなければ、敵から奪う。

それが戦場の論理であり、彼はその論理で国を救ってきたのだから。


「俺たちはそうやって生き残ってきた。生き残った国が、正義だ」


 英雄の瞳がギラリと光る。

その光は、民衆を熱狂させる希望の光であり――同時に、国を焼き尽くす戦火の色でもあった。


「剣は、まだ錆びていないぞ。レオン」


 レオンは深く息を吐き、眼鏡の位置を直した。

そして、冷徹な声で告げる。


「却下です」

「なんだと?」

「略奪は収入ではありません。負債の前借りです」


 レオンは手元の書類を一枚引き抜き、ガランドに見せつけた。


「新たな占領を行えば、統治コストが発生します。治安維持費、反乱鎮圧費、伸びきった補給線の維持費……それらは略奪で得られる一時的な利益を、わずか数ヶ月で食いつぶす」

「俺が勝てば関係ない!」

「勝つたび、維持費で国が死ぬと言っているんです!」


 レオンの声が、初めて荒げられた。

それは単なる怒りではない。

破滅へと向かう数字を、誰にも理解されないことへの焦燥だった。

室内の空気が凍りつく。

英雄の「熱」と、実務家の「冷」が、狭い部屋で正面から衝突していた。


 ガランドは不満げに鼻を鳴らす。

「じゃあどうするんだ。兵たちを飢えさせる気か? 民は強い国を望んでいるんだぞ」

「それを考えるのが、私の仕事です。あなたの剣ではなく、私の数字で」


 睨み合いが続く中、部屋の入口に新たな人影が現れた。

王の近衛兵だ。

彼は緊張した面持ちで、勅書を捧げ持っていた。


「財務官レオン・ハーゼン、および将軍ガランドに、国王陛下より勅命である!」


 レオンとガランドは即座に姿勢を正し、膝をつく。

近衛兵が読み上げる声が、静寂の部屋に響いた。


「国家の財政危機は、余も承知している。だが、民はこれ以上の流血を望まぬ」


 そして、王の言葉はこう続いた。


「猶予を与える。――三か月だ」


 レオンの脳裏に、朝のパン屋の光景がよぎった。

湯気を立てる白パン。

銅貨二枚の安らぎ。

あれを守れるかどうかが、この三か月の全てだった。


 レオンは顔を上げた。


「三か月で、次の戦争なしに、国を生かせ。……それができねば、我が国は剣によって生きる修羅の道を選ぶほかあるまい」


 つまり、期限内に財政を立て直せなければ、ガランドの言う通り「略奪戦争」を許可する、という意味だ。


 ガランドは不敵に笑った。

「三か月か。無理なら俺の出番だな」


 ガチャン、ガチャンと、重厚な金属音が遠ざかっていく。

その背中は、王都の朝日に照らされて、まるで勝利そのものが歩いているかのようだった。


 レオンは何も答えない。

ただ、山積みになった請求書と、窓の外で輝く「平和な王都」を見つめた。


 パン一個、銅貨二枚。

チャリン、というその軽い音が、今、断頭台の刃の上で鳴っていることを知っているのは、この部屋にいる人間だけだった。

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