第三話 祝祭の終わる日
蝉時雨が降り注ぐ八月の山間部。避暑地として名高い那須高原の奥深くに、その洋館はひっそりと佇んでいた。バブル期に建てられたという企業の保養所を買い取ったもので、表向きは会員制の宿泊施設となっているが、実質的にはテニスサークル「ゴールデンライオン」とそのOBたちが秘密裏に管理する私的な城だ。
俺、相田啓人は、その洋館から数百メートル離れた雑木林の中に停められたワンボックスカーの助手席にいた。車内は蒸し風呂のような暑さだが、エンジンをかけてエアコンを使うわけにはいかない。窓を数センチだけ開け、流れ込んでくる生温い風と、絶え間なく鳴き続けるヒグラシの声を聞きながら、膝上のノートパソコンを睨みつけている。
「……映像、来ました。カメラAからF、すべて正常に作動しています」
俺の声は、緊張で少し掠れていた。
運転席には、ジャーナリストの須藤がいる。彼はタオルで額の汗を拭いながら、手元のモニターを確認し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「上出来だ。あの管理人に握らせた三十万、無駄にはならなかったな」
合宿の二日前、俺たちは施設の管理人に接触した。須藤が掴んでいた管理人の借金トラブルをネタに揺さぶりをかけ、さらに現金を手渡すことで、清掃業者になりすまして館内に侵入することに成功したのだ。
宴会場、VIPルーム、そして廊下の要所要所に、米粒ほどの大きさしかない最新鋭の超小型カメラと、高感度の集音マイクを仕掛けた。電源は施設のコンセント裏から取っているため、バッテリー切れの心配はない。
「来たぞ。主役たちのご到着だ」
須藤の低い声に、俺は画面上の「カメラA(正面玄関)」に意識を集中させた。
午後三時。木漏れ日の中を、高級外車が列をなしてやってくる。ベンツ、レクサス、ポルシェ。学生の身分では到底手の届かない車ばかりだ。運転しているのは現役の幹部学生たち、そして後部座席から降りてくるのは、仕立ての良いカジュアルな服を着た中高年の男たち――OBたちだ。
「あれは……大手広告代理店の部長クラスだな。おっ、こっちは現職の県議会議員の秘書か。なるほど、噂通りの『名門』ぶりだ」
須藤が次々と男たちの素性を特定していく。彼らは皆、社会的な地位と名誉を持つ「成功者」の顔をしている。だが、その裏で彼らが何を求めてここに集まっているのか、俺たちは既に知っている。
やがて、マイクロバスが到着した。降りてきたのは、テニスラケットを持った一年生の女子たちだ。彼女たちは一様に緊張した面持ちで、しかしどこか期待に満ちた瞳で館内を見上げている。「選ばれた特別な合宿」という甘い言葉に誘われ、これから起こる地獄を知らずに。
そして最後に、オープンカーの助手席から、一人の女性が降り立った。
西園寺玲奈。
俺の元恋人であり、今はサークルの「女王(クイーン)」と呼ばれる存在。
画面越しの彼女は、白いサマードレスを身に纏い、まるで本当の女王のように優雅に微笑んでいた。運転席から降りてきた一条聖也が彼女の腰に手を回し、何かを囁く。玲奈は頬を染めて頷き、一条の腕に自分の体を預けた。
「……幸せそうだな」
俺の口から、乾いた言葉が漏れた。
悔しさはない。ただ、かつて俺に向けられていた笑顔が、今はあんなにも醜悪な欲望の対象として消費されていることへの、冷ややかな納得感だけがあった。彼女はもう、俺の知っている玲奈ではない。一条という脚本家が描いた舞台で踊る、哀れな人形だ。
「始めるぞ、相田。録画、全チャンネル同期スタート」
「了解。……録画、開始しました」
Enterキーを押す指先に、微かな力がこもる。
これが、奴らの終わりの始まりだ。
陽が落ち、森が深い闇に包まれる頃、館内の宴会場では「パーティ」が始まった。
カメラCの映像には、立食形式の豪華な食事が並び、シャンパンタワーが煌めいている様子が映し出されている。最初は和やかな交流会のように見えた。OBたちが新入生に優しく声をかけ、社会の厳しさや成功の秘訣を語っている。女子学生たちは目を輝かせ、彼らの話に聞き入っている。
だが、夜が更けるにつれて、空気は徐々に変質していった。
振る舞われる酒の度数が上がり、照明が落とされ、BGMがアップテンポなものに変わる。何人かの女子学生が足元をふらつかせ、ソファに崩れ落ちるのが見えた。
「……始まったな」
須藤がタバコに火をつけながら呟いた。
画面の中では、OBたちが泥酔した女子学生の肩を抱き、あからさまに体に触れ始めている。抵抗しようとする子もいるが、周りの先輩女子たちが「大丈夫、先輩は優しいから」「これも勉強だよ」と笑顔で抑え込んでいる。組織的な共犯関係。逃げ場のない檻の中で、羊たちが追い詰められていく。
そして、宴会場の中央、一段高くなったステージに一条聖也が立った。マイクを握り、陶酔しきった表情で叫ぶ。
『さあ、今年もこの時がやってきた! 我がゴールデンライオンの誇り高き伝統、血の結束を確認する夜だ! 社会の常識? 倫理? そんなものは凡人たちが作った鎖に過ぎない。我々は選ばれた獅子だ! 今夜、すべての理性を解放し、本能のままに交わることで、我々は真の家族になる!』
ウオオオオオ! という野太い歓声と、黄色い悲鳴が入り混じる。
狂気だ。カルト宗教の集会と何ら変わらない。
『そして今夜、新たな女王の誕生を祝おう! 西園寺玲奈!』
スポットライトが浴びせられ、玲奈がステージに上がった。白いドレスはいつの間にか脱ぎ捨てられ、黒いランジェリーのような際どい衣装に変わっている。彼女は恥じらうどころか、その視線を一身に浴びることに快感を覚えているように見えた。
一条が玲奈の肩を抱き、マイクを向ける。
『玲奈、お前は今、幸せか?』
『はい、一条先輩。私、今が一番幸せです』
マイクを通した彼女の声は、クリアな音声データとして俺たちのHDDに保存されていく。
『以前の男……ああ、名前は何だったかな? そいつといた時よりもか?』
一条がわざとらしく首を傾げる。俺の心臓がドクリと跳ねた。来る。俺の話だ。
玲奈はクスクスと笑い、カメラに向かって――まるで画面の向こうにいる俺を見透かすような視線で言い放った。
『相田……啓人、でしたっけ? もう忘れちゃいました。あんな退屈な人と一緒にいた時間が、今は恥ずかしいくらい。だって、彼は何もしてくれなかったもの。「大切にする」とか「守る」とか、口先だけの綺麗事ばかりで。私を「女」として満たしてくれたのは、一条先輩やここの皆さんだけです』
『ハハハ! 聞いたかみんな! 真面目腐った正義漢気取りの元カレ君は、ベッドの上では役立たずだったそうだ!』
会場がドッと爆笑に包まれる。
OBの一人が野次を飛ばす。
『おいおい、そりゃ可哀想だな! 俺たちがたっぷりと教えてやらなきゃな、大人の愛し方をよ!』
俺は、自分の表情が能面のように凍りついていくのを感じた。
怒りですらない。ただ、あまりの愚かさに呆れ果てていた。
玲奈、お前は知らないんだな。今、その言葉が、お前自身を社会的に抹殺する決定的な証拠になっていることを。俺への侮辱が酷ければ酷いほど、世間はお前を「被害者」として同情する余地を失い、「進んで悪に染まった愚女」として断罪するだろう。
「……いい画が撮れたな、相田」
「はい。これ以上ないくらい、完璧です」
画面の中では、一条が玲奈に口づけ、そのままステージ上で行為に及ぼうとしていた。周囲の男たちもそれに呼応するように、泥酔した女子学生たちに襲いかかっている。
地獄絵図だ。
だが、そのすべてが高解像度の4K映像として記録されている。男たちの顔、行為の詳細、そして玲奈の「ありがとうございます、先輩」という感謝の言葉までもが。
「須藤さん、VIPルームの方も動きがあります」
俺は別のモニターを指差した。
そこは防音設備の整った個室だ。映っているのは、先ほど到着した代理店部長と、県議秘書の男。そして、二人の女子学生。彼女たちは明らかに意識が混濁しており、抵抗できない状態でベッドに横たわっている。
男たちはグラスを片手に談笑しながら、まるでモノを扱うように彼女たちの服を脱がせていく。
『しかし、今年の一年は豊作だな。一条の目利きは確かだ』
『ああ。これなら先生も喜ぶ。次の公共事業の入札、一条の親父さんの会社に回せるよう口添えしておこう』
決定的な汚職の証拠。
性接待と利益供与の現場。
これで、ただの大学サークルの不祥事では済まなくなった。政財界を巻き込む一大スキャンダルになる。
「……獲った」
須藤が震える声で呟いた。
彼はヘッドフォンを外し、大きく息を吐き出した。その目には、ジャーナリストとしての執念の炎が宿っていた。
「これで奴らは終わりだ。学生の火遊びどころか、贈収賄の温床だとなれば、警察も検察も動かざるを得ない。大学側も隠蔽なんて不可能だ」
「……玲奈も、終わりですね」
「ああ。同情はするか?」
「いいえ。彼女は自分で選んだんです。この結末を」
画面の中の玲奈は、複数の男たちに囲まれ、乱れた姿で笑っていた。その笑顔は、薬物かアルコールの影響か、どこか虚ろで、張り付いた仮面のようにも見えた。かつて俺が愛した、花が咲くように笑う彼女は、もうこの世のどこにもいない。
「撤収の準備をしよう。データはクラウドにもバックアップしてあるが、このHDDは命より重い。絶対に持ち帰るぞ」
「はい。……あ、待ってください」
俺は画面の一角に映った異変に気づいた。
宴会場の隅で、一人の女子学生が必死に逃げようとしていた。まだ意識があるらしい。泣き叫びながらドアに向かう彼女を、数人の男たちが笑いながら追いかけている。
その中の一人が、彼女の髪を掴んで引き倒した。
「……っ!」
体が勝手に動きそうになった。助けに行かなければ。
だが、須藤の手が俺の肩を強く掴んだ。
「行くな、相田」
「でも! 彼女はまだ……!」
「今お前が飛び込んで何ができる? 警備員もいる、男は数十人いる。お前が捕まれば、この証拠も闇に葬られる。そうすれば、彼女だけでなく、これから先の被害者も救えない。あの子を見捨てるんじゃない。あの子を含めた全員を救うために、今は耐えろ」
須藤の声は厳しく、そして苦渋に満ちていた。彼もまた、目の前の惨劇に怒りを覚えているのだ。
俺は唇を噛み切り、拳を握りしめた。血の味が口の中に広がる。
画面の中の女子学生は、男たちに取り押さえられ、服を引き裂かれていた。彼女の絶望的な悲鳴が、マイクを通してスピーカーから響く。
「……ごめん。ごめん……」
俺は画面に向かって謝り続けた。
その光景を脳裏に焼き付ける。一生忘れてはいけない。俺がこの証拠を使って奴らを裁く時、この痛みこそが原動力になる。
深夜二時。
狂乱の宴はまだ続いていたが、俺たちは静かに撤収を開始した。
カメラの回収は不可能だ。このまま残し、警察の捜索が入った際の証拠品としてもらう。
ノートパソコンを閉じ、HDDを厳重に梱包する。
車のエンジンをかけ、ライトを消したまま、月明かりだけを頼りに林道を下る。
背後の洋館からは、まだ微かに重低音が漏れ聞こえていた。あの中で今も行われているおぞましい行為を思うと、吐き気が止まらなかった。
山道を抜け、国道に出たところで、東の空が白み始めていた。
朝焼けの光が、車内を照らす。
須藤がタバコを取り出し、深く吸い込んだ。
「……終わったな、相田」
「いいえ、須藤さん。これからです」
俺はスマホを取り出した。
記事の原稿は既に須藤が書き上げている。あとは、今夜撮れた決定的な画像と動画を添付し、編集部に送るだけだ。
さらに、俺は独自に作成した「告発サイト」の準備も進めていた。サーバーは海外を経由させている。週刊誌の発売と同時に、このサイトを公開し、SNSで拡散する。
「来週の月曜日。週刊誌の発売日。それが奴らの『Xデー』だ」
俺はスマホの画面に映る玲奈の写真を見つめた。
入部前の、まだ清純だった頃のツーショット写真。
俺は静かに「削除」ボタンを押した。
画面から彼女の笑顔が消え、無機質なゴミ箱アイコンに吸い込まれていく。
「さようなら、玲奈。……地獄で会おう」
車は東京へとひた走る。
朝日が眩しい。
それは希望の光か、それとも断罪の閃光か。
俺の心は、かつてないほどに冷たく、そして澄み渡っていた。
玲奈たちが泥酔し、気怠い朝を迎える頃、俺たちは東京で最後の仕上げに取り掛かる。
彼女たちが「最高の思い出」だと信じているその記録が、世界中に拡散され、彼女たちの未来を完全に焼き尽くす業火となることを、彼女たちはまだ知らない。
その無知と油断こそが、俺が彼女たちに与える最大の「慈悲」であり、同時に最も残酷な「罠」だった。
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