第二話 闇に葬られた声たち

大学の中央図書館にあるPCルームは、静寂と微かなファンの駆動音に包まれていた。周囲にはレポート作成に追われる学生たちの姿があるが、俺、相田啓人のディスプレイに映し出されているのは、学術論文でも判例集でもない。テニスサークル「ゴールデンライオン」の過去数年分にわたるブログやSNSの魚拓データだ。


玲奈との決定的な決裂から三日が経過していた。

あのカフェでの別れ際、俺の心は千々に乱れていたが、今は嘘のように凪いでいる。それは許しや諦めではない。感情の沸点を超えた怒りが、冷たい刃物のような「目的意識」へと変質したからだ。


法学部の講義で学んだ刑法の条文が頭をよぎる。準強制性交等罪、逮捕監禁罪、あるいは組織的な犯行としての共謀共同正犯。奴らが玲奈に、そして他の女子学生たちに行ってきた行為は、単なる若気の至りやサークル内のトラブルで済まされるものではない。だが、警察を動かすには「証拠」と「被害届」が必要だ。


玲奈は洗脳されており、被害届を出すどころか、自ら加担している状態だ。ならば、他の被害者を探すしかない。俺はマウスを動かし、三年前のサークルの集合写真を拡大した。


「……いた」


画面の隅、ぎこちない笑顔でピースサインをする一人の女性。名前は、川澄麻衣(かわすみ まい)。

SNSの履歴を遡ると、彼女は入学直後の四月にゴールデンライオンに入部し、その年の夏休み明けに突然大学を休学。半年後に復学しているが、サークルに関する投稿は一切なくなり、当時の友人関係もリセットされているようだった。

典型的な「ドロップアウト」のパターンだ。


俺は彼女の現在のSNSアカウントを特定し、迷わずDMを送った。

『突然のご連絡申し訳ありません。法学部三年の相田と申します。ゴールデンライオンの実態について調査しています。現在、私の友人が当時のあなたと同じ状況に置かれています。彼女を救うため、そして連鎖を断ち切るために、お話を聞かせていただけないでしょうか』


送信ボタンを押す指が震えた。古傷をえぐるような真似だとは分かっている。だが、今は手段を選んでいられない。

返信が来たのは、その日の深夜だった。

『……場所を指定してください。個室のあるお店でお願いします』


翌日の放課後。俺は大学から二駅離れた場所にある、個室居酒屋の席に座っていた。

約束の時間を五分ほど過ぎて、引き戸が控えめに開いた。現れたのは、小柄で眼鏡をかけた地味な印象の女性だった。かつての写真にあった華やかさは見る影もなく、怯えるように周囲を警戒している。


「相田さん……ですか?」

「はい。急な呼びかけに応じてくださり、本当にありがとうございます。川澄さんですね」


彼女は小さく頷き、俺の対面に座った。注文したウーロン茶が運ばれてきても、彼女はグラスに口をつけようとしない。両手を膝の上で固く握りしめ、視線をテーブルに落としている。


「あの、今の彼女さん……大丈夫なんですか?」

「……正直、手遅れに近い状態です。完全に洗脳されていて、暴行を『伝統の儀式』だと信じ込まされています」

「伝統の、儀式……」


その単語を聞いた瞬間、川澄さんの肩がびくりと跳ねた。彼女の顔から血の気が引き、呼吸が浅くなるのが分かった。俺は思わず身を乗り出しそうになったが、彼女を怖がらせないよう努めて冷静さを保った。


「無理に話さなくて大丈夫です。ただ、俺はあいつらを許せない。代表の一条聖也、そしてサークル全体を、法的に、社会的に抹殺したいんです。そのためには、過去に何があったのかを知る必要があります」


俺の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の瞳には、恐怖と、それ以上に深い憎悪の色が宿っていた。


「……一条だけじゃないんです」

「え?」

「学生だけじゃないんです、あのサークルは。もっと、根が深くて……汚い組織なんです」


川澄さんは意を決したように、ポツリポツリと語り始めた。その内容は、俺の想像を遥かに超えるおぞましいものだった。


「新入生の女子は『獲物』と呼ばれます。飲み会で強いお酒や、時には薬のようなものを混ぜられて意識を奪われ、サークルの幹部たちに回されます。そして、その様子を動画に撮られるんです。『バラされたくなければ従え』って」

「脅迫……そこまでやっているのか」

「でも、本当の地獄はその後です。夏と冬に行われる合宿。そこには、OBたちが来るんです」

「OB?」

「はい。大手商社や広告代理店、中には官僚になった人もいます。みんな、ゴールデンライオンの出身者です。彼らは『後輩の指導』という名目で合宿に参加し、夜になると……私たちが、あてがわれるんです」


俺は言葉を失った。単なる学生のヤリサーではない。ここは、政財界に太いパイプを持つエリートたちが、安全に性欲を処理し、背徳的な秘密を共有することで結束を固めるための「ハレム」だったのだ。


「一条は、その斡旋役です。OBたちに気に入られれば、将来の就職も約束される。だから彼は、女をモノのように献上するんです。『これが今年の極上です』って……」


川澄さんの声が震え、瞳から涙がこぼれ落ちた。

俺は拳を握りしめすぎて、爪が掌に食い込んでいた。玲奈が言っていた「選ばれた者」「将来の安定」という言葉の意味が、最悪の形で繋がった。彼女は、一条の出世のための生贄にされたのだ。そして彼女自身も、その歪んだ構造に取り込まれることでしか、自分の尊厳を保てなくなっている。


「私は……怖くて、逃げ出しました。でも、動画があると言われて、誰にも言えなかった。警察に行こうともしましたが、OBの中に警察関係者の息子がいて、揉み消されるぞって脅されて……」

「そんなことが……」

「でも、一度だけ、話を聞いてくれた人がいました。週刊誌の記者さんです。須藤さんという方でした」

「須藤?」

「はい。彼だけは真剣に取材してくれました。でも、記事が出る直前に編集部の上層部から圧力がかかって、記事は差し止めになり、須藤さんは契約を切られたと聞きました。それ以来、私はもう誰に頼ることも諦めていたんです」


そこまで巨大な力が働いているのか。俺の背筋に冷たいものが走る。だが同時に、一筋の光明も見えた。

圧力に屈して筆を折らされた記者。彼なら、今の俺と同じ種類の「怒り」を持っているはずだ。


「川澄さん。その須藤さんの連絡先、分かりますか?」

「ええ、名刺をずっと持っています。いつか、あいつらが裁かれる日が来ることを願って……」


彼女は財布の奥から、くしゃくしゃになった名刺を取り出した。

俺はそれを押し頂くように受け取った。


「必ず、仇は取ります。あなたの涙も、俺の彼女の人生も、無駄にはさせません」


店を出た後、俺はその足で名刺にある住所へと向かった。

都内の雑居ビルの一室。看板もなく、郵便受けにマジックで『須藤』とだけ書かれている。インターホンを鳴らすと、不機嫌そうな男の声が応答した。


「……誰だ。セールスなら帰れ」

「川澄麻衣さんの紹介で来ました。ゴールデンライオンの件で、話があります」


しばしの沈黙の後、ガチャリと鍵が開く音がした。

ドアを開けると、そこはタバコの煙と酒の臭いが充満する薄暗い事務所だった。書類や古雑誌が山積みにされたデスクの奥に、無精髭を生やした中年男が座っている。須藤だ。


「川澄ちゃんか……懐かしい名前だな。元気にしてたか?」

「いえ、彼女はまだ過去の傷に苦しんでいます。そして今、新たな被害者が生まれています」


俺は単刀直入に切り出した。自分の身分、玲奈のこと、そして川澄さんから聞いたOBを含めた組織売春の構造。

須藤は気怠そうにタバコをふかしながら聞いていたが、俺が「今度の夏合宿」に言及した瞬間、鋭い眼光をこちらに向けた。


「夏合宿か。奴らが『カーニバル』と呼んでる一大イベントだな」

「知っているんですか?」

「ああ。俺が三年前に潰そうとして、返り討ちにあったのもそのタイミングだ。大学への寄付金をチラつかせるOBの親父たち、広告出稿を盾にする代理店……相手が悪すぎた」


須藤は自嘲気味に笑い、空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れた。


「兄ちゃん、やめときな。学生の正義感じゃどうにもならん。相手は社会的地位のある連中だ。法学部生なら分かるだろ? 証拠がなければ捏造だと訴えられて、逆にお前の人生が終わるぞ」

「分かっています。だからこそ、決定的な証拠を撮ります」


俺は鞄から一枚の紙を取り出し、デスクの上に叩きつけた。


「これは、今年の夏合宿のスケジュールと、宿泊施設の図面です。玲奈の……元彼女のスマホを覗き見た時に記憶していた情報を元に書き起こしました。彼女は『女王(クイーン)』として参加します。つまり、最も深い場所、OBたちが集まるVIPルームに出入りするはずです」


須藤が紙を手に取り、まじまじと見つめる。


「俺は、合宿所に潜入してカメラを仕掛けます。奴らが油断しきって、犯罪行為に及んでいるその瞬間を、映像と音声で記録する。それがあれば、圧力なんて関係ない。ネットで拡散し、同時にマスコミに流せば、いくら大物でも隠蔽しきれません」

「……潜入だと? バレたら半殺しじゃ済まないぞ」

「覚悟の上です。俺にはもう、失うものはありませんから」


俺の目を見て、須藤はしばらく黙り込んだ。その瞳の中で、燻っていた残り火が再び燃え上がるのを感じた。

彼はタバコを灰皿に押し付けると、ニヤリと笑った。


「……面白い。三年前の借りを返すには、絶好の機会かもしれねえな」


須藤は立ち上がり、棚から無骨な機材が入ったケースを取り出した。


「潜入なんて危ない橋を渡らなくてもいい。俺に任せろ。最近の超小型カメラと高性能集音マイクはすげえぞ。問題は、それをどうやって事前にセットするかだが……」

「合宿所の管理人は、金に汚い男だと聞いています。あるいは、事前の下見と称して侵入ルートを確保するか……策はあります」


俺たちは夜遅くまで、作戦を練り続けた。

須藤のジャーナリストとしての経験と人脈、そして俺の執念と情報収集能力。それらが噛み合い、完璧な包囲網が形成されていく。


帰り道、俺は夜空を見上げた。

星は見えない。都会のネオンが空を明るく照らしすぎているからだ。

ポケットの中のスマホが震えた。ブロックしていないSNSの通知だ。玲奈が新しい写真をアップしていた。

『もうすぐ夏合宿! 大好きな先輩たちと最高の思い出作るぞ♡ #ゴールデンライオン #伝統 #絆』


写真の中の彼女は、一条の肩に寄りかかり、とろけるような笑顔を見せている。その首元には、まだ新しいキスマークが増えていた。

かつて愛したその笑顔を見ても、もはや俺の心はピクリとも動かなかった。あるのは、事務的な確認作業としての視点だけだ。


「楽しそうだな、玲奈」


俺はスマホの画面に向かって、冷たく呟いた。


「精々、今のうちに楽しんでおけ。その『最高の思い出』が、お前たちの人生を終わらせる死刑宣告になるんだからな」


風が変わった。生ぬるい夜風が、肌を刺すような冷気を含み始める。

舞台は整いつつある。

次の一手は、奴らの懐、夏合宿の会場だ。

俺は駅のホームへと続く階段を降りていった。その足音は、確固たる意志を刻むように、硬く、重く響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る