第四話 ゴミ箱行きのアルバム
窓の外では、夕立が激しさを増していた。叩きつけるような雨音が、静まり返った俺のアパートのワンルームに響いている。
俺、相沢健太は、部屋の中央にあるローテーブルの前に座り、じっと玄関のドアを見つめていた。
部屋の中はいつもより片付いている。いや、片付いているというよりは、物が減っていた。美咲が置いていった歯ブラシ、着替えのパジャマ、彼女が好んで使っていたマグカップ。それらは既に黒いゴミ袋の中に詰め込まれ、ベランダの隅に追いやられている。
残っているのは、テーブルの上に置かれた一枚の紙と、本棚の一等地に飾られた一冊のアルバムだけだ。
「……そろそろか」
スマホの時計を確認する。午後七時。美咲から『今からお祝いに行くね!』というメッセージが来てから、ちょうど一時間が経過していた。
俺の心は、驚くほど凪いでいた。
昨日の坂本との対峙で、怒りの感情はあらかた使い果たしてしまったのかもしれない。今の俺にあるのは、汚れてしまった体の一部を切除する手術を待つ患者のような、冷徹な覚悟だけだった。
ガチャリ、と鍵が開く音がした。
美咲は合鍵を持っている。かつては、彼女がいつでも入ってこられることが嬉しかった。俺が部活で疲れて帰ってくると、彼女がご飯を作って待っていてくれる。そんなささやかな幸せの象徴だった合鍵の音が、今は不法侵入者が入ってくる音のように不快に響く。
「健太ー! ただいま!」
ドアが開き、美咲が弾んだ声と共に飛び込んできた。
彼女の手には、有名パティスリーのロゴが入った紙袋と、シャンパンのボトルが握られている。濡れた傘を畳むのももどかしそうに、彼女は靴を脱ぎ捨てて俺の方へ駆け寄ってきた。
「ごめんね、遅くなっちゃって! ケーキ選んでたら迷っちゃってさ。でも、今日は特別なお祝いだから、一番高いやつ買ってきたよ!」
美咲の顔は輝いていた。雨に濡れた髪が頬に張り付いているが、そんなことは気にも留めていない様子だ。彼女の瞳には、一点の曇りもない「達成感」が宿っている。
俺が自力で内定を勝ち取ったことを、彼女はまだ知らない。
そして、自分が身体を捧げた男が、ただの無職の詐欺師であることも。
「……おかえり」
俺は努めて低い声で迎えた。
美咲は俺の表情の硬さに気づかず、テーブルの上にケーキとシャンパンを広げ始めた。
「ねえ、聞いたよ! 内定、出たんでしょ!? おめでとう健太! ほんとにおめでとう!」
彼女は感極まったように声を震わせ、俺に抱きつこうと身を乗り出した。
俺は反射的に上体を反らし、その腕を避けた。
「……え?」
美咲の手が空を切る。彼女はきょとんとして俺を見た。
「どうしたの健太? 照れてるの? もう、今日は素直に喜んでいいんだよ? 私たち、やっとスタートラインに立てたんだから」
彼女は無邪気に笑う。その笑顔の裏に、別の男と肌を重ねた記憶がへばりついていると思うと、吐き気がこみ上げてきた。
彼女の体から漂う甘い香水の匂い。それは以前と同じもののはずなのに、今は腐敗臭を隠すための芳香剤のようにしか感じられない。
「ああ、そうだね。内定は出たよ」
俺はテーブルの上に置いてあったクリアファイルを彼女の方へ滑らせた。
「これだ」
「もう、知ってるよー。坂本さんから連絡来ると思ってずっと待ってたんだから」
美咲は嬉々としてファイルを開いた。
しかし、中に入っていた書類を見た瞬間、彼女の動きが止まった。
『内定通知書 帝都重工株式会社 殿』
そこに書かれているのは、彼女が想像していた「某大手総合商社」の名前ではない。日本を代表する重工業メーカー、帝都重工の社名だ。
「……え?」
美咲は数回まばたきをして、顔を上げた。
「帝都重工……? あれ? 商社じゃないの?」
「商社? なんで商社から内定が来ると思ったんだ?」
俺は冷ややかに問いかけた。
「だって……坂本さんが……」
美咲の視線が泳ぐ。彼女は必死に頭の中で状況を整理しようとしているようだった。
「健太、これ、どういうこと? 坂本さんの紹介枠で、商社に決まったんじゃないの? だって、あの人、役員に話を通すって……」
「坂本なんて男は関係ない。これは俺が自分の実力で受けに行って、役員面接で評価されて勝ち取った内定だ」
俺は淡々と事実を告げた。
美咲の顔から、さっと血の気が引いていく。
「自力で……? でも、そんなはずないよ。だって健太、面接苦手だったじゃない。それに、体育会枠だって使い切ってたし……」
「ああ、苦労したよ。でも、逃げずにぶつかったら評価してくれたんだ。お前が俺を信じられなかったとしても、企業は俺を信じてくれたんだよ」
「信じてないわけじゃないよ! 私はただ、心配で……!」
美咲は声を荒らげ、ファイルをテーブルに戻した。
「でも、おかしいよ。坂本さんは『ほぼ確実』って言ってたもん。もしかして、商社の方からも内定通知、来てるんじゃない? 郵便受け、確認した?」
「来るわけないだろう」
俺はため息をつき、スマホを取り出した。画面を操作し、昨日の会議室で録音した音声データを再生する。
『……許してくれ……頼む、投稿を消してくれ……金なら払う! 借金してでも払うから! 警察には言わないでくれ!』
スピーカーから流れてくるのは、情けなく命乞いをする坂本恭一の声だ。美咲がよく知っているはずの、あの自信満々だった男の、無様な本性。
「え……これ、恭一さんの声……?」
「恭一さん、か。随分と親しげだな」
俺の皮肉に、美咲はビクリと肩を震わせた。
「こいつは大手商社の人事なんかじゃない。去年の夏に入社三ヶ月でクビになった無職だ。親のすねをかじりながら、お前みたいな就活生の弱みにつけ込んで、体を弄んでいただけの詐欺師だよ」
俺は残酷な真実を突きつけた。
「そ、そんな……嘘よ。だって、タワマンでパーティもしてたし、高級車にも乗ってたし……私のためなら何でもするって……」
「全部レンタルと嘘だ。俺が調べ上げた。こいつは今頃、実家の田舎に連れ戻されてるか、あるいは警察の取調室にいるだろうな」
美咲はガタガタと震え出した。
彼女が信じていた「救世主」は幻だった。彼女が必死に築き上げたコネクションは、蜘蛛の糸ですらなかったのだ。
「じゃあ……じゃあ、私は……?」
美咲の唇がわななく。
「私は何のために……? 健太のために、嫌なこと我慢して、あの人に抱かれたのに……。痛いのも、気持ち悪いのも、全部健太の内定のためだと思って耐えたのに……!」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは悔し涙か、それとも自分の愚かさへの絶望か。
「全部、無駄だったってこと……?」
「ああ、無駄だ。完全に、無意味だ」
俺は容赦なく言い放った。
「お前のその『献身』とやらは、俺の就活には1ミリも貢献していない。それどころか、俺が必死に面接を受けている間、お前は無職の詐欺師とホテルで遊んでいただけだ」
「遊んでたんじゃない!」
美咲が叫んだ。
「あなたのためだったのよ! あなたが苦しんでるのを見てられなかったの! 私が泥をかぶれば、あなたが幸せになれると思ったの! だから……だから私は、体を差し出したのよ!」
彼女はすがりつくように俺の手を握ろうとした。
俺はその手を払いのけた。
「汚らわしい」
その一言が、部屋の空気を凍りつかせた。
「……え?」
「汚らわしい話を、僕に聞かせないでくれ」
俺は彼女を見下ろした。かつて愛したその顔が、今は醜悪な何かにしか見えなかった。
「お前はそれを『愛』だと言いたいのかもしれないが、俺からすればただの『裏切り』だ。お前は俺の力を信じなかった。俺が自力で内定を取れると信じず、安易な裏口に飛びついた。その時点で、お前は俺のパートナー失格なんだよ」
「ちがう……信じてたよ! でも、確実な未来が欲しかったの! 二人で幸せになるための、確実な……!」
「幸せ? 他の男に抱かれた女と結婚して、俺が幸せになれると本気で思ってるのか?」
俺の問いかけに、美咲は言葉を詰まらせた。
彼女の中で「結果さえ良ければ全てチャラになる」という甘い計算があったのだろう。だが、現実はそう甘くない。過程が腐っていれば、結果も腐るのだ。
「もういい。話すことはない」
俺は立ち上がり、本棚に手を伸ばした。
そこに飾られていた、一冊のアルバムを取り出す。
高校時代の、ラグビー部のアルバム。表紙には、泥だらけの俺と、タオルを持って笑顔で寄り添う美咲の写真が貼ってある。
俺たちにとっての聖域。三年間の青春が詰まった、かけがえのない宝物。
「健太……? それ……」
美咲がハッとしたように顔を上げる。
俺はアルバムを手に持ったまま、彼女の目の前に立った。
「これを見るたびに、俺は頑張れると思ってた。お前との思い出が、俺の力の源だった」
俺は静かに語りかけた。
「でも、今はこれを見ると、お前があの詐欺師と絡み合っている映像がフラッシュバックするんだ。お前の笑顔の裏で、お前が『健太のため』と言い訳しながら快楽に溺れていた姿が浮かんでくる」
「そんなことない! 心はあなただけだった! 体は汚れても、心はずっと……!」
「体と心は繋がってるんだよ。少なくとも、俺にとってはそうだ」
俺は足元にあったゴミ箱を引き寄せた。
中には、彼女のマグカップやパジャマが無造作に捨てられている。
「やめて……」
美咲が何かを察して、青ざめた顔で首を振る。
「やめて、健太。それだけは……それだけは捨てないで。私たちの思い出でしょ? 一番大切なものでしょ?」
「大切だったよ。昨日まではな」
俺はアルバムを持ち上げた。重みがある。この重みは、俺たちが過ごした時間の重みだ。
だが、今の俺には、それはただの重荷でしかない。
「さよなら、美咲」
俺は迷うことなく、手を離した。
ドサッ、という鈍い音がして、アルバムがゴミ箱の中に落ちた。
美咲のパジャマの上に、無惨に重なる。表紙の二人の笑顔が、ゴミ袋の闇に飲み込まれていく。
「いやああああああああっ!!」
美咲が悲鳴を上げ、ゴミ箱に飛びつこうとした。
俺はその前に立ちはだかり、彼女の肩を掴んで止めた。
「触るな。それ以上、俺の部屋を汚すな」
「どうして……どうしてこんなことするの!? 謝るから! 何でもするから! お願いだから捨てないで! 私の……私の青春なのよ!!」
美咲は泣き叫び、その場に崩れ落ちた。
彼女にとって、このアルバムは「自分が必要とされていた証」であり、健太との絆の象徴だった。それがゴミとして扱われたことで、彼女のアイデンティティは完全に粉砕されたのだ。
「お前の青春は、お前自身が汚したんだ。坂本という男の体液でな」
俺は冷酷に告げた。
「出て行ってくれ。二度と俺の前に顔を見せるな」
「嫌だ! 別れたくない! 健太がいないと私……!」
「俺はもう、お前がいなくても生きていける。いや、お前がいない方が、ずっと清々しく生きられる」
俺は泣きじゃくる美咲の腕を引き、無理やり立たせた。抵抗する力は大したことはない。彼女は精神的に打ちのめされ、足元がおぼつかない状態だった。
玄関まで引きずっていき、ドアを開ける。
外の雨音が一気に部屋の中に入り込んできた。湿った風が、ケーキの甘ったるい匂いを吹き飛ばしていく。
「健太……お願い、見捨てないで……私、馬鹿だった……本当に馬鹿だったの……」
美咲は俺のシャツを掴んで懇願した。メイクは涙で流れ落ち、美しい顔は見る影もない。
だが、俺の心には同情のかけらも湧かなかった。
自業自得。因果応報。
自分の安易な選択が招いた結末を、彼女はこれから一生背負って生きていくのだ。
「鍵、返せ」
俺は彼女の手から合鍵をもぎ取った。
「元気でな。いい『パパ』が見つかるといいな」
最後にもう一度だけ皮肉を投げかけ、俺は彼女を廊下へと押し出した。
「健太ぁぁぁっ!!」
美咲の絶叫と共に、俺はドアを閉めた。
ガチャリ、と鍵をかける。チェーンもかける。
二重のロック音が、俺と彼女の世界を完全に遮断した。
ドアの向こうからは、激しくドアを叩く音と、美咲の泣き叫ぶ声が聞こえ続けている。
「開けて!」「ごめんなさい!」「愛してるの!」
そんな言葉が、雨音に混じって聞こえてくる。
俺はドアに背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
そして、大きく、深く、息を吐き出した。
終わった。
長かった就職活動も、高校時代から続いた恋も、すべて終わった。
部屋の中は静かだった。ゴミ箱の中のアルバムも、もう何も語りかけてはこない。
ふと、視線を上げると、テーブルの上の「内定通知書」が目に入った。
帝都重工。俺が自分の足で、自分の言葉で勝ち取った未来への切符。
それは、誰の手垢もついていない、真っ白で輝かしい紙切れだった。
「……腹減ったな」
独り言が漏れた。
そういえば、昼から何も食べていなかった。
俺は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中には、作り置きの惣菜と、缶ビールが一本。
美咲が作ったものではない。俺が自分で買ってきたものだ。
プシュッ、と小気味良い音を立ててビールを開ける。
一口飲むと、苦味と炭酸が喉を刺激し、体に染み渡った。
美味い。
今まで飲んだどんなビールよりも、格別に美味かった。
外の泣き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
雨音だけが、ザアザアと世界を洗い流すように降り続いている。
明日はきっと晴れるだろう。
俺は新しいスーツに袖を通し、新しい世界へと歩き出すのだ。
そこにはもう、偽りの愛も、歪んだ献身も存在しない。
あるのは、俺自身の力で切り開く、本物の人生だけだ。
俺は空になった缶をゴミ箱――アルバムの上ではなく、リサイクル用のゴミ袋――に投げ入れ、未来に向けて小さく笑った。
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