サイドストーリー 偽りの王、泥に沈む

東京の夜景というのは、見下ろす側と見上げる側で、その意味がまるで違う。

六本木のタワーマンション、その二十五階にあるパーティルーム。眼下に広がる光の海を見下ろしながら、俺、坂本恭一はグラスの中の安ワインを揺らした。


「恭一さん、すごーい! この部屋、恭一さんの自宅なんですか?」


黄色い声を上げて俺の腕に絡みついてくるのは、どこぞの女子大生だ。名前はもう忘れた。リクルートスーツを着崩した彼女たちは、俺という「大手総合商社の採用担当」という肩書きに群がる蟻のようなものだ。


「まあね。たまに息抜きで使うセカンドハウスだよ。君たちみたいな将来有望な学生と話すのは、いい刺激になるからさ」


嘘だ。

ここは一時間数万円で借りられるレンタルスペースだし、このワインは近くのスーパーで買ってきた一本千円もしない代物だ。俺の着ているスーツも、腕の時計も、すべてが見栄と虚飾で塗り固められたハリボテだ。

だが、そんなことは関係ない。彼女たちは俺を信じ、俺に媚び、俺の機嫌を損ねないように必死になっている。その事実だけが、俺の乾いた自尊心を満たしてくれる唯一の栄養源だった。


「採用担当って、やっぱり激務なんですか?」

「そうだね。特に今年は『ダイヤの原石』を探すのに苦労してるよ。マニュアル通りの優等生ばかりでつまらないんだ」


俺はもっともらしく溜息をついてみせる。

本当の俺は、昨年の四月にコネで入社した中堅専門商社を、わずか三ヶ月でクビになった無職だ。協調性がない、経費の精算が合わない、女子社員にしつこく言い寄った。そんな理由で放り出された社会の落伍者だ。

だが、この空間にいる限り、俺は王でいられる。人の人生を左右できる強者でいられる。


ふと、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

画面を確認すると、『西野美咲』という名前が表示されている。

ああ、あの子か。最近捕まえた、とびきりの「上玉」だ。


『恭一さん、お疲れ様です。健太のことで相談があるんですけど……』


メッセージの内容を見て、俺は鼻で笑った。

彼女の彼氏、相沢健太とかいうラグビー馬鹿。就活に苦戦している脳筋男だ。美咲はその彼氏のために、俺に身体を差し出している。

「彼氏の内定のために」と泣きそうな顔でホテルに来る彼女を抱くのは、最高の愉悦だった。純愛? 献身? 笑わせる。結局は、俺という権力(ニセモノだが)に屈服しているだけじゃないか。


『いいよ。明日の午後、いつものホテルで』


そう返信すると、すぐに『ありがとうございます!』と既読がついた。

チョロい。本当にチョロい。

俺はワインを一気に飲み干した。この万能感。これがあるから、この生活はやめられない。消費者金融の借金が天井に張り付いていようと、実家の親に嘘をつき続けていようと、この快感だけは手放せない。


数日後。

俺は新宿の安居酒屋のトイレで、鏡に映る自分の顔を整えていた。

今日は、あの相沢健太本人から呼び出しがあったのだ。

『彼女から聞きました。内定の話、詳しく聞かせてください。謝礼は弾みます』

そんなメールが来た時、俺は思わずガッツポーズをした。


美咲からは、彼氏は真面目で融通が利かないタイプだと聞いていたが、結局は金で解決しようとする浅ましい学生だったというわけだ。

「謝礼」という言葉が、俺の金欠気味の財布を刺激する。美咲からは体、彼氏からは金。骨の髄までしゃぶり尽くしてやる。


「へっ、所詮は脳筋か。適当に業界用語並べて、コンサル料名目で数万巻き上げてやるか」


ネクタイの歪みを直し、俺は意気揚々と指定された貸し会議室へと向かった。

これから起こる悪夢など、微塵も予想せずに。


会議室のドアを開けた時、俺は勝利を確信していた。

中にいたのは、いかにも体育会系といった風貌の、野暮ったい男だった。緊張した面持ちで座っている彼を見て、俺は心の中で嘲笑った。

こんなのが商社志望? 笑わせるな。俺の靴を磨くのがお似合いだ。


だが、その余裕はわずか数分で粉々に砕け散った。


「あなたは現在、無職ですね」


相沢健太がテーブルの上に並べた資料を見た瞬間、俺の思考は真っ白になった。

興信所の報告書。前職の退職証明。消費者金融の督促状。そして、俺が裏垢で投稿していたSNSのログ。

隠していたはずの、見ないふりをしてきた「現実」が、容赦なく白日の下に晒されていた。


「は……? なんだよこれ……」


声が震える。脇の下から嫌な汗が吹き出し、シャツに染みていく。

彼は冷静だった。怒鳴るわけでも、殴りかかってくるわけでもない。ただ事務的に、俺という人間を解体していく。その目が、何よりも恐ろしかった。ゴミを見るような、感情のない目。


「ネットで晒しました」「大学に通報しました」「警察に行きますか」


次々と放たれる言葉の弾丸に、俺は立ち上がることもできずに椅子にへたり込んだ。

嘘だろ。なんで一介の学生がここまでやるんだ。金も時間もかかるはずだ。たかが就活、たかが女の浮気だろ? なんでここまで本気になれるんだ。


「金なら払う! 借金してでも払うから!」


気づけば俺は、彼に土下座せんばかりに懇願していた。

プライドも何もない。ただ、この恐怖から逃れたかった。親にバレるのが怖かった。社会的に抹殺されるのが怖かった。


しかし、彼は冷徹に言い放った。

「そんな汚い金、いりませんよ」

そして、トドメの一撃。

「俺は自分の実力で、あんたが騙ってた商社より格上の企業から内定をもらってる」


その言葉を聞いた時、俺は完全なる敗北を悟った。

ニセモノの俺と、ホンモノの彼。

最初から勝負にすらなっていなかったのだ。


彼が去った後の会議室で、俺は一人、子供のように泣きじゃくった。

スマホが鳴る。実家の父からだ。怒鳴り声が聞こえる。

通知が止まらない。SNSには俺の顔写真と本名が拡散され、何千もの罵詈雑言が書き込まれている。

『死ね詐欺師』『こいつ知ってる』『実家特定した』

文字の暴力が、画面を埋め尽くしていく。


「あ……あぁ……」


俺はスマホを放り出し、頭を抱えた。

終わった。俺の「王様ごっこ」は、最悪の形で幕を下ろしたのだ。


季節は巡り、木枯らしが吹く十一月。

俺は北関東の寂れた田舎町にいた。

実家である「坂本酒店」。シャッター街になりかけた商店街の片隅で、細々と営業している古びた店だ。


「おい恭一! ぼさっとしてないでビールケース運べ! 腰が痛ぇんだよ!」


店先から、親父の怒鳴り声が飛んでくる。

俺は無言で立ち上がり、重たいケースを持ち上げた。腰に鈍い痛みが走るが、文句を言える立場ではない。


あの日、東京から逃げ帰った俺を待っていたのは、地獄のような日々だった。

実家の店には、無言電話や嫌がらせのFAXが殺到した。ネットで実家を特定されたせいだ。母は心労で寝込み、親父は俺を半殺しにする勢いで殴りつけた。

「この恥さらしが!」「お前のせいで店が潰れる!」

罵倒を浴びながら、俺は東京での煌びやかな生活――借金まみれの虚像だったが――を強制的に精算させられた。


スーツも時計もバッグも、すべて売り払って借金の返済に充てた。それでも足りず、親父が老後の資金を崩して払ってくれた。その代償として、俺はこの店で無給で働く奴隷となったのだ。


重いビールケースを軽トラの荷台に積み込みながら、俺はふと自分の手を見た。

かつてはハンドクリームで手入れし、女子大生の肌を愛撫していた手だ。今はひび割れ、爪の間には垢が詰まり、ささくれ立っている。

着ているのは、高校時代のジャージと、親父のお下がりのジャンパー。

これが、今の俺だ。


「……くそっ」


吐き気がするほどの惨めさだ。

配達のために軽トラを走らせる。田舎の道は狭く、すれ違う人々の視線が痛い。

この町は狭い。「坂本さんちの息子、東京で詐欺やって捕まりかけたらしいよ」「女を騙してたんだって」という噂は、瞬く間に広まっていた。

コンビニに寄るのも怖い。同級生に会うのが怖い。俺は常に帽子を目深に被り、マスクをして、誰とも目を合わせないようにして生きている。


赤信号で止まった時、ふと歩道を歩く若いカップルが目に入った。

幸せそうに手を繋ぎ、笑い合っている。

女性の方が、少しだけ美咲に似ていた。


「……あいつ、どうしたかな」


美咲。俺の栄光の時代の象徴であり、破滅の引き金となった女。

彼女もまた、地獄を見ただろう。相沢という男は容赦がなかった。おそらく、美咲のことも徹底的に切り捨てただろう。

「ザマァ見ろ」と思う自分と、「あいつも被害者だったのに」と同情する自分がいる。いや、違う。俺が彼女を騙したんじゃない。彼女が勝手に俺に幻想を抱き、勝手に利用しようとしたんだ。俺だって被害者だ。


そんな歪んだ自己正当化を繰り返さないと、精神が保てなかった。

俺は悪くない。社会が悪い。就活というシステムが悪い。俺の才能を見抜けなかった企業が悪い。

そう心の中で呪詛を吐き続けていた。


配達先の居酒屋の裏口で、空き瓶を回収している時のことだった。

店内のテレビから、ニュース番組の音が漏れてきた。


『……次世代エネルギー開発の大型プロジェクト、その中核を担う帝都重工は、本日記者会見を行い……』


帝都重工。

ビクリと肩が跳ねた。相沢健太が内定を取ったと言っていた企業だ。

俺は恐る恐る、勝手口の隙間からテレビ画面を覗き込んだ。

画面には、作業服を着た若手社員たちが、巨大なタービンの前でインタビューに答えている映像が流れていた。


『――どんな困難があっても、現場で泥臭く粘ることが大事だと思います。それが私たちの誇りです』


その中の一人が、相沢健太だった。

内定式か何かの取材映像だろうか。彼はまだ学生のはずだが、その顔つきは既に一人前の男のそれだった。

凛々しく、自信に満ち、真っ直ぐに前を見据えている。

かつて会議室で俺を見下ろした、あの冷徹な目はなく、希望に燃える若者の目だった。


「…………」


俺は、持っていた空き瓶を取り落としそうになった。

眩しい。直視できないほどに眩しい。

彼は「ホンモノ」になったのだ。自分の力で道を切り開き、社会に必要とされる人間になった。

それに引き換え、俺はどうだ?

薄暗い路地裏で、生ゴミの臭いにまみれながら、他人が飲み散らかした残骸を片付けている。


「おい恭一! 何サボってんだ! さっさと積め!」


親父の怒鳴り声が現実に引き戻す。


「……はい、今やります」


俺は小さく答え、逃げるようにテレビ画面から目を逸らした。

悔しさ? 嫉妬? いや、そんな感情すら湧かないほどの、圧倒的な敗北感。

俺は最初から、彼と同じ土俵にすら立っていなかったのだ。


軽トラの運転席に戻り、エンジンをかける。

冷たい雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーがギシギシと音を立てて動く。

その単調な音を聞きながら、俺はハンドルに突っ伏した。


「なんでだよ……なんで俺ばっかり……」


涙が滲む。

東京に戻りたい。あの煌びやかな夜に戻りたい。誰かにチヤホヤされたい。

でも、もう戻れない。俺の顔と名前はデジタルタトゥーとしてネットの海に刻まれ、一生消えることはない。再就職なんて絶望的だ。

この寂れた町で、親父の罵声を浴びながら、一生酒瓶を運び続けるしかないのだ。


スマホを取り出し、写真フォルダを開く。

そこにはまだ、消せずに残っていた写真があった。レンタルしたタワマンの窓際で、ワイングラスを持ってポーズを決める俺。隣には、幸せそうに微笑む美咲。

二人とも、馬鹿みたいに笑っている。

全部嘘だったのに。全部、ハリボテだったのに。


「……消すか」


俺は震える指で削除ボタンを押した。

『完全に削除しますか?』

『はい』


画面から二人の笑顔が消え、無機質なフォルダ画面に戻った。

これで、俺の栄光の時代は本当に跡形もなく消え去った。


「寒ぃな……」


暖房の効きが悪い車内で、俺は身を縮めた。

どこかで美咲も、同じように凍えているのだろうか。それとも、新しい男を見つけて温まっているのだろうか。

どっちでもいい。もう俺には関係のない話だ。


俺はアクセルを踏んだ。

軽トラは鈍い音を立てて走り出す。

行く先は、薄暗い実家の倉庫。そこには、明日配達する分の重たいビールケースの山が待っている。

それが、偽りの王だった俺に与えられた、唯一の現実だった。

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2026年1月11日 19:00
2026年1月12日 19:00

「俺の内定の為」と偽OBに身体を捧げた彼女。実力で超大手に受かった俺が、男の正体を晒し、汚れた彼女と青春のアルバムをゴミ箱へ捨てるまで @flameflame

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