第三話 詐欺師の末路
八月の熱気がコンクリートを焼き、蝉の鳴き声が耳鳴りのように降り注ぐ午後。俺、相沢健太は、新宿の雑居ビルにある貸し会議室の一室にいた。
空調の効いた室内は静寂に包まれているが、俺の心の中は嵐の前の海のように静かで、深く、冷たかった。
机の上には、一通の分厚い茶封筒。
興信所の調査員から受け取ったばかりの「真実」だ。学生の身分には安くない金額だったが、帝都重工の内定祝いとして親から貰った小遣いと、四年間貯めたバイト代をすべて突っ込んだ。
その価値は十分にあった。
封筒の中身を改めて確認する。
写真の数々。西野美咲と坂本恭一がホテルに入る姿。高級レストランで食事をする姿。そして、坂本が一人で安アパートに帰っていく姿。
さらに、坂本の経歴書、現在の借金状況、実家の住所、そして彼がSNSの裏垢で投稿していた卑劣な書き込みのログ。
「……呆れたな」
俺は独り言を漏らし、冷めたコーヒーを口に含んだ。
怒りはもう通り越していた。今の俺にあるのは、害虫を駆除するような事務的な使命感だけだ。
美咲のことは、もう「彼女」としては見ていない。彼女はただの被害者であり、そして加担者だ。だが、その元凶であるこの男だけは、社会的に抹殺しなければ気が済まない。
時計の針が約束の時間を指したとき、ドアがノックもなしに開いた。
「よう。随分と待たせたみたいだな」
入ってきたのは、坂本恭一だった。
今日はラフなジャケット姿だが、腕には相変わらずギラギラした高級時計もどきを巻き、ブランドロゴが大きく入ったバッグを下げている。その顔には、隠しきれない優越感と、俺を見下すような薄ら笑いが張り付いていた。
俺が彼を呼び出した手口は単純だ。
興信所が割り出した彼のアドレスに、『西野美咲の彼氏です。彼女から全て聞きました。内定の話、私にも詳しく聞かせてもらえませんか。謝礼は用意します』とメールを送ったのだ。
「謝礼」という言葉に釣られたのだろう。彼は俺を、美咲と同じように金づるか、あるいは弱みを握って弄べる玩具だと思ってやって来たに違いない。
「初めまして、相沢です」
「ああ、知ってるよ。美咲ちゃんから聞いてる。ラグビーやってる脳筋くんでしょ?」
坂本は俺の対面の席にドカッと座り、足を組んだ。
「で? 内定が欲しいって? 正直さあ、君みたいなタイプは商社向きじゃないんだよね。美咲ちゃんがあんまり必死だから、こうして会ってやったけどさ」
坂本はポケットからタバコを取り出そうとしたが、ここが禁煙であることに気づき、舌打ちをして戻した。
「単刀直入に言おうか。俺の推薦枠を使うには、それなりの『対価』が必要なんだよ。美咲ちゃんは体で払ったけど、君は何で払うの? 金? いくら持ってるわけ?」
ニヤニヤと笑うその顔を見て、俺の中で何かが冷徹に決断を下した。
こいつは、救いようがない。
一片の情けもかける必要はない。
「対価、ですか。そうですね、今日は十分なものを用意してきましたよ」
俺は落ち着いた動作で、茶封筒から数枚の書類を取り出し、机の上に滑らせた。
最初に坂本の目に留まったのは、彼が「某大手総合商社」のロゴが入った名刺を女子大生に渡している盗撮写真だった。
「は? なにこれ」
「坂本恭一さん。あるいは、ネット上のハンドルネーム『商社マンK』さん」
俺は淡々と告げた。
「あなたは現在、無職ですね。昨年の四月に中堅の専門商社に入社しましたが、三ヶ月の試用期間中にセクハラと経費の使い込みが発覚し、七月末で懲戒解雇されている」
坂本の表情が凍りついた。組んでいた足が、ぎこちなく解かれる。
「……は? 何言ってんの? 俺は今も現役の採用担当だよ。誰情報だよそれ」
「現役の採用担当が、平日の真っ昼間にこんな場所に来られるわけがないでしょう。それに、これがあなたの前職の会社から取り寄せた、退職証明書の写しです。事由には『自己都合』と書いてありますが、裏を取ったら実際は解雇だそうですね。温情で自己都合にしてもらったのに、まだその会社の名前を騙って詐欺を働いている」
俺は次の資料を提示した。消費者金融からの督促状のコピーだ。
「タワーマンションでのパーティ? あれはレンタルスペースですよね。高級外車もレンタカー。ブランド品はほとんどがスーパーコピーか、リサイクルショップの型落ち。現在のあなたは、親からの仕送りと、就活生から巻き上げた『就活コンサル料』という名目の小銭で食いつないでいる、ただの無職だ」
坂本の顔から血の気が引いていくのが手に取るように分かった。額に脂汗が滲み、視線が泳ぎ始める。
「お、お前、探偵とか使ったのか? 違法だぞ、プライバシーの侵害だ!」
「違法? 詐欺師が法律を語るんですか? あなたがやっていることは、身分詐称、詐欺、そして就活生の弱みにつけ込んだ準強制性交等罪の疑いもある。どちらが法に触れているか、警察で話し合いますか?」
俺が「警察」という単語を出した瞬間、坂本はガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ふ、ふざけんな! 俺は帰るぞ! こんなのデタラメだ!」
「お座りください」
俺は低い声で制した。ラグビーで鍛えた腹の底から出るドスの利いた声に、坂本はビクリと肩を震わせて動きを止めた。
「まだ話は終わっていません。逃げても無駄ですよ。もう手は打ってありますから」
「……手って、なんだよ」
「これです」
俺はタブレット端末を取り出し、あるWebページを表示して彼に見せた。
それは、就活生たちが情報交換を行う大手掲示板の、「要注意人物・悪徳業者情報」のスレッドだった。
「昨夜、ここにあなたの情報を投稿させてもらいました。あなたの顔写真、本名、偽の名刺、そしてあなたが過去にSNSで自慢げに語っていた『就活女子を食う手口』のスクショ。すべてセットでね」
画面の中には、すでに数百件のレスがついていた。
『こいつ知ってる! 青学の近くで声かけてきたやつだ!』
『商社の人事とか言ってたけど、やっぱり嘘だったのか』
『友達がこいつにホテル連れ込まれそうになった。拡散希望』
『特定班降臨。こいつの実家、〇〇県の〇〇商店じゃね?』
坂本は画面を食い入るように見つめ、手が震えだした。
「な、なんだよこれ……消せよ! 今すぐ消せ! 俺の人生終わるだろ!」
「終わりませんよ。これからが本番です」
俺は冷酷に続ける。
「あなた、〇〇大学のインカレサークルのOB面してキャンパスに出入りしてましたよね? 今朝、その大学の学生課と、あなたが名刺を悪用していた商社の法務部に、これら全ての証拠を送付しました。商社の方は、ブランドイメージを毀損されたとして、法的措置も辞さない構えだそうですよ」
「う、嘘だ……」
「本当です。担当者の名前も言いましょうか?」
坂本はその場に崩れ落ちるように椅子へ座り込んだ。
虚勢は完全に剥がれ落ち、そこにはただの怯えた小男がいるだけだった。
「なんで……なんでこんなことすんだよ……」
「なんで? それが分からないんですか?」
俺は身を乗り出し、坂本の目を正面から見据えた。
「あなたは人の心を弄んだ。就活という、学生にとって人生がかかった不安な時期に付け込み、偽の希望を見せて、尊厳を踏みにじった。美咲だけじゃない。何人もの女子学生が、あなたの嘘に泣かされた。これはその報いです」
「あ、合意だったんだよ! 彼女たちだって、俺にメリットを求めてきたんだ! ウィンウィンだろ!?」
「無職の詐欺師に何のメリットがあるんですか? あなたが提供したのは、偽物の夢と、性病のリスクだけだ」
俺の言葉は鋭利な刃物となって彼を切り刻んだ。
その時、坂本のスマートフォンが鳴り響いた。軽快な着信音が、室内の重苦しい空気を切り裂く。
画面には「実家(父)」の文字。
「……出たらどうですか?」
「い、いやだ……出たくない……」
「出ないなら、こちらからかけ直してもいいんですよ? ご実家の酒屋さん、Googleマップにも載ってましたから」
坂本は泣きそうな顔で震える指をスライドさせ、電話に出た。
「も、もしもし……父さん……?」
漏れ聞こえてくる怒声は、部屋の隅にいる俺にもはっきりと聞こえた。
『恭一! お前、ネットで何晒されてるんだ! 大学から連絡があったぞ! 警察沙汰になるかもしれないって、どういうことだ! お母さんはショックで倒れたぞ! 近所にも噂が広まって、店が開けられないじゃないか! 今すぐ帰ってこい! 説明しろ!』
「ご、ごめん……ごめんなさい……違うんだ、あれは……」
坂本はボロボロと涙を流しながら、子供のように言い訳を繰り返していた。
あの自信満々だった「エリート商社マン」の面影は微塵もない。
電話が切れると、彼は机に突っ伏して嗚咽を漏らした。
「……許してくれ……頼む、投稿を消してくれ……」
「無理です。一度ネットに出た情報は消せません。デジタルタトゥーというやつですよ。あなたは一生、『就活生を食い物にした詐欺師』として生きていくんです」
「金なら払う! 借金してでも払うから! 警察には言わないでくれ!」
坂本が俺の足元に縋り付こうとする。俺はその手を冷たく避けた。
「金? そんな汚い金、いりませんよ」
俺は立ち上がり、彼を見下ろした。
「それにね、坂本さん。一つ教えてあげます。あなたが偽っていた商社よりも、はるかに格上の企業から、俺は内定をもらっています。自分の実力でね。あなたの偽物のコネなんて、最初から必要なかったんです」
「……え?」
「美咲も馬鹿ですが、彼女は少なくとも俺のために動こうとした。歪んだ形でしたがね。でも、あなたはただの寄生虫だ。彼女の純粋な愚かさを利用した、最低のクズだ」
俺は出口へと向かう。背後から「待ってくれ!」「見捨てないでくれ!」という情けない叫び声が聞こえたが、一度も振り返らなかった。
ドアノブに手をかけ、最後に一言だけ言い残す。
「警察に行くか、田舎に帰って一生隠れて暮らすか、好きにしてください。でも、二度と俺と美咲の前に顔を見せるな。次に見かけたら、今度は物理的に終わらせますよ」
ドアを閉めると、廊下の静寂が戻ってきた。
会議室の中からは、獣のような呻き声と泣き声が微かに聞こえてくる。
俺は大きく息を吐き出した。
胸のつかえが取れたような、強烈なスカッとした感覚。
ざまぁみろ。
因果応報だ。自分の撒いた種は、自分で刈り取るしかない。
ビルの外に出ると、夕立が降った後なのか、アスファルトの匂いが立ち込めていた。
空には大きな虹がかかっている。
俺の未来は晴れている。自分の力で切り開いた、本物の未来だ。
だが、まだ終わっていない。
最大の精算が残っている。
ポケットの中のスマートフォンを取り出し、美咲の連絡先を表示する。
彼女はまだ、何も知らない。自分が無職の詐欺師に抱かれ、俺を裏切った行為がすべて無駄だったことを知らない。
「内定取れたよ」という俺からの報告を、自分の体のおかげだと信じて待っているはずだ。
「……さよならを言いにいくか」
俺は虹を見上げながら、最後の仕上げに取り掛かる決意を固めた。
怒りはない。悲しみもない。
ただ、汚れてしまった思い出を、適切な場所――ゴミ箱へ捨てるために。
俺は駅へと歩き出した。
その足取りは、就活を始めた頃よりも、ずっと力強く、迷いがなかった。
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