第二話 自力での栄光と、汚れた献身

七月に入り、アスファルトを焦がすような日差しが照りつける日が続いていた。季節は夏本番を迎えようとしていたが、俺、相沢健太の心臓は、極寒の地に放り出されたかのように冷たく、そして激しく脈打っていた。


目の前には、重厚なマホガニーのデスク。その奥に座っているのは、日本を代表する超一流重工メーカー、「帝都重工」の役員たちだ。白髪の混じった厳格そうな男性が三人、鋭い眼光で俺を見据えている。ここは最終役員面接の場。これまで何十社と落ち続けてきた俺が、なぜか書類選考と一次、二次面接をトントン拍子で通過し、たどり着いてしまった「頂上」だった。


「相沢君、君のエントリーシートには、ラグビー部での実績ばかりが書かれているね。正直、今の時代、体力と根性だけではビジネスは通用しないと言われている。その点についてどう思う?」


中央に座る専務と呼ばれる男が、静かだが威圧感のある声で問うた。俺は膝の上で拳を握りしめ、深く息を吸い込んだ。小手先のテクニックや、付け焼き刃のロジカルシンキングなど、この場にいる百戦錬磨の大人たちには通用しないことは分かっている。なら、俺に残された武器は一つだけだ。


「おっしゃる通りです。私は御社の求めるような、スマートで効率的な人間ではないかもしれません。データ分析も、語学も、まだ人並み以下です」


俺は一度言葉を切り、真っ直ぐに専務の目を見返した。


「ですが、私は逃げません。ラグビーというスポーツは、痛みを恐れずに前に出る競技です。泥にまみれ、タックルを受け、何度倒されても、ボールを前に運ぶために立ち上がります。私は、御社が直面するどんな困難なプロジェクトであっても、泥臭く、愚直に、最後の最後まで絶対に逃げずにやり遂げる自信があります。その『しぶとさ』だけは、誰にも負けません」


用意してきた美辞麗句ではない。今の俺の、偽らざる本音だった。就活で否定され続け、それでも歯を食いしばってここに立っている、今の自分の生き様そのものだった。


室内にはしばらくの沈黙が流れた。エアコンの空調音だけが響く。俺の背中を冷や汗が伝う。

やがて、専務の口元がわずかに緩んだ。


「逃げない、か。最近の学生にしては珍しい、いい目だ」

「は……?」

「今の若い奴らは賢い。損得勘定ですぐに見切りをつける。だがな、我々が扱っているのは国家規模のインフラだ。一度始めたら数十年は終わらない。一番必要なのは、君が言ったような『しぶとさ』なんだよ」


専務は隣の役員たちと顔を見合わせ、小さく頷き合った。そして、俺に向き直り、ニカっと笑った。


「相沢君。君、合格だ。その場で決めるのは異例だが、君のような男を他社に取られたくない」


専務が立ち上がり、手を差し出してくる。俺は状況が飲み込めず、呆然としたままそのゴツゴツとした手を握り返した。


「……え、あ、ありがとうございます!」

「人事には私から伝えておく。内定通知書は後日送るが、今日から君は帝都重工の一員だと思ってくれていい。期待しているぞ、ラガーマン」


その瞬間、俺の視界が滲んだ。これまで積み重ねてきた不安と焦燥が、一気に決壊したようだった。


「はいっ! ありがとうございます! 一生懸命、頑張ります!」


ビルを出た俺は、空を見上げた。突き抜けるような青空が広がっている。

受かった。あの帝都重工に、自分の実力だけで。コネも裏口もなく、俺という人間そのものを評価してくれた。

スマートフォンを取り出し、震える指で美咲の連絡先を表示する。一番に伝えたい。俺を支え、信じてくれた彼女に。「やったぞ」と報告したい。


だが、通話ボタンを押そうとした指が止まった。

今は平日の午後三時。美咲は大学の講義中か、あるいは就活のセミナーに行っている時間だ。電話に出られないかもしれない。それに、どうせなら直接会って、驚かせたい。そうだ、今夜は少し高いケーキでも買って、彼女の部屋に行こう。


俺はスキップでもし出しそうな軽い足取りで、駅へと向かった。これから待ち受ける地獄など、露ほども知らずに。


同じ時刻、港区の高級ホテルの一室。

分厚いカーテンの隙間から差し込む光が、乱れたシーツと、そこに横たわる二人の男女を照らし出していた。


「ん……恭一さん、もう……」


甘ったるい声を上げているのは、西野美咲だ。彼女は気怠げに髪をかき上げ、隣でタバコをふかしている坂本恭一の背中に指を這わせた。


「美咲ちゃん、今日は今までで一番良かったよ。随分と『誠意』の見せ方が上手くなったね」


坂本は煙を吐き出しながら、美咲の腰を撫でた。最初の頃のような躊躇いは、今の美咲にはもうない。

彼女の中で、この行為は完全に正当化されていた。これは「健太のため」なのだ。坂本という強力なコネクションを維持し、健太に商社の内定をもたらすための、尊い犠牲。まるで悲劇のヒロインになったかのような錯覚が、罪悪感を麻痺させ、背徳感を甘美な快楽へと変質させていた。


「だって、恭一さんが色々教えるから……」

「はは、飲み込みがいいのは才能だよ。それにしても、彼氏くんは幸せ者だな。こんなに尽くしてくれる彼女がいて」


坂本の言葉に、美咲は少し得意げな表情を浮かべた。


「そうですよ。健太は、私がいないとダメなんです。不器用で、真っ直ぐすぎるから。私が裏でこうやって道を作ってあげないと、社会じゃ生きていけないの」


美咲は自分に酔っていた。健太を守っている自分。健太の将来を握っている自分。その優越感が、坂本との情事を通じて増幅されていた。


「そうだね。彼のエントリーシート、俺の方で添削して人事部長に渡しておいたよ。『非常に見所がある』って部長も言ってた。まあ、ほぼ内定は確実だろうな」


もちろん、これは真っ赤な嘘だ。坂本はエントリーシートなど読んでいないし、そもそも人事部長になど会える立場でもない。だが、美咲はその言葉を信じ込み、瞳を輝かせた。


「本当ですか! よかった……! 私の努力、無駄じゃなかったんですね」

「ああ、君のおかげだよ。……ご褒美に、今度また何か買ってあげようか? 前のバッグ、気に入ってくれただろ?」

「え、いいんですか? うれしい……」


最初は「身体を売って物をもらうなんて」と拒否していた美咲も、今では当然のように坂本からの貢ぎ物を受け取っていた。高価なブランド品は、彼女にとって「犠牲の対価」であり、自分の価値を証明する勲章になっていた。


「じゃあ、そろそろ行こうか。今日はこれから別の商談があるんだ」

「はい。……あの、健太の最終面接の日程、いつ頃になりそうですか?」

「焦るなよ。役員のスケジュール調整には時間がかかるんだ。いい子にして待ってれば、吉報は届くから」


坂本は美咲の頬にキスをし、ベッドから起き上がった。美咲はその後ろ姿を見つめながら、満ち足りたため息をついた。

私は汚れたかもしれない。でも、この汚れこそが、健太への愛の深さなのだと。


その日の夕方。

俺はデパ地下で買った有名店のホールケーキを手に、美咲のマンションの最寄り駅ではなく、乗り換えのために新宿駅の雑踏の中を歩いていた。美咲の好きなフルーツタルトだ。驚く顔が目に浮かぶ。


「……ん?」


ふと、ホテルのネオンサインが連なる一角、タクシー乗り場の近くで、見覚えのあるワンピースが目に入った。

淡いピンク色の、春先に俺がプレゼントしたワンピース。それを着ているのは、間違いなく美咲だった。

心臓がドクンと跳ねる。美咲? どうしてこんなところに?


声をかけようと足を踏み出した瞬間、俺の動きは凍りついた。

美咲の隣には、仕立ての良いスーツを着た男がいた。背が高く、いかにも業界人といった風貌の男だ。

そして、あろうことか、その男の手は美咲の腰に回され、あまつさえお尻を撫でるように動いていた。


「え……?」


思考が停止する。見間違いだ。そう思いたかった。

だが、美咲はその手を振り払うどころか、男の胸に身を寄せて、とろけるような笑顔を向けていたのだ。俺に向けられる「安心させるような笑顔」とは違う、どこか艶めかしい、女の顔。


二人はそのままタクシーに乗り込んでいった。

俺は動けなかった。手に持ったケーキの箱が、鉛のように重く感じる。

周囲の喧騒が遠のき、耳鳴りだけが響く。


「……な、なんだよ、あれ」


乾いた声が出た。

美咲は今日、大学の友人と勉強会だと言っていた。俺の就活の邪魔にならないよう、最近は会うのを控えていると言っていた。

それが、なぜあんな男と、ホテル街から出てくるんだ?

あの男は誰だ? 浮気? まさか。美咲に限って。高校からずっと一緒だった。俺のためなら何でもすると言ってくれた彼女が。


「俺のため……?」


不意に、嫌な予感が脳裏をよぎった。美咲の最近の言動。「私がなんとかしなきゃ」「いい話があるの」。

まさか、俺の就活のために?


吐き気がした。胃の中のものが逆流しそうになるのを必死で堪える。

その場にうずくまりたい衝動を抑え、俺は震える手でスマートフォンを取り出した。そして、今しがたタクシーに消えた男の顔を思い出す。特徴的な顔立ちだった。それに、どこかの企業の採用ページか何かで見たような……いや、違う。どこかのSNSだ。


俺は震える指で検索をかけた。

「総合商社 採用担当」「OB訪問 アプリ」

いくつかのキーワードを打ち込むうちに、一つの告発掲示板にたどり着いた。


『【注意喚起】〇〇商事の人事を名乗る坂本恭一に注意。タワマンパーティや高級ディナーで女子大生を釣ってるけど、実際は入社一年目でクビになった無職。偽の名刺を使ってやりたい放題』


添付されていた画像。そこには、先ほど美咲の腰を抱いていた男が、シャンパングラス片手にポーズを取っている写真があった。

名前は、坂本恭一。


「……無職?」


全身の血の気が引いていくのが分かった。

怒りよりも先に、哀れみが、そして底知れぬ絶望が襲ってきた。

美咲は、俺のために身体を張ったつもりなのかもしれない。だが、その相手は人事権など持っていない、ただの詐欺師だ。

彼女は騙され、弄ばれ、そしてそれを「健太のため」と信じて、身体を差し出し続けている。


「ふざけるな……」


低く、唸るような声が漏れた。

俺の実力での内定。その輝かしい成果の裏で、彼女は泥沼に沈んでいた。しかも、無意味な泥沼に。

ケーキの箱を握りしめる手に力が入り、箱がぐしゃりと潰れる音がした。


「ふざけるなよ……!」


俺はスマートフォンを耳に当てた。

呼び出し音が鳴る。ワンコール、ツーコール。


「もしもし、健太? どうしたの?」


スピーカーから聞こえてくる美咲の声は、いつも通り明るく、そして少し弾んでいた。背後からは車の走行音が聞こえる。タクシーの中だろう。


「……今、どこにいるんだ?」


努めて冷静に、声を絞り出す。


「え? 今、図書館から帰ってるところだよ。これからスーパー寄って帰るね」


平然と嘘をつく彼女の声。その裏にある「あなたのために嘘をついているのよ」という傲慢な響きが、俺の神経を逆撫でする。

俺は深呼吸をした。今ここで怒鳴りつけても、証拠がなければシラを切られるだけだ。それに、あの詐欺師も逃してしまうかもしれない。


ラグビーで培った冷静さが、燃え上がる怒りを冷徹な殺意へと変えていく。

相手の動きを読み、弱点を見抜き、完全に息の根を止める。

今の俺は、ただの就活生ではない。復讐者だ。


「そうか。お疲れ様。俺も今日は疲れたから、もう寝るよ」

「うん、ゆっくり休んでね。大好きだよ」


「大好き」。その言葉が、これほど汚らわしく聞こえたことはなかった。

通話を切り、俺は潰れたケーキの箱を近くのゴミ箱に叩き込んだ。

甘い匂いが鼻をつく。それは、かつて俺たちが信じていた「純愛」の死臭のようだった。


俺は歩き出した。家には帰らない。

まずは興信所だ。学生には痛い出費だが、貯金を崩してでもやる価値がある。

坂本の素性、美咲との密会写真、ホテルの出入り記録。すべてを揃える。

そして、あの詐欺師を社会的に抹殺し、美咲には現実という名の地獄を見せてやる。


夜の新宿のネオンが、俺の影を黒く、長く伸ばしていた。

もう、あの頃の純朴なラガーマンはいない。そこにいるのは、裏切りという毒を飲み込み、鬼へと変貌した一人の男だけだった。

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