「俺の内定の為」と偽OBに身体を捧げた彼女。実力で超大手に受かった俺が、男の正体を晒し、汚れた彼女と青春のアルバムをゴミ箱へ捨てるまで

@flameflame

第一話 焦燥と甘い罠

六月の湿り気を帯びた生温かい風が、ビル風となってコンクリートのジャングルを吹き抜ける。就職活動の最盛期を迎えた東京のオフィス街は、同じようなリクルートスーツに身を包んだ学生たちで溢れかえっていた。


俺、相沢健太(あいざわ けんた)もその中の一人だ。ただ、周囲の学生たちと少し違うのは、既製品のスーツの肩幅がパツパツに張り詰め、太腿の筋肉がズボンの生地を悲鳴を上げさせていることだろうか。大学四年間、そして高校からの三年間、ラグビーという競技にすべてを捧げてきた身体は、スマートな就活生のそれとは明らかに異質だった。


「……また、だめか」


スマートフォンの画面に表示された、「今後のご活躍をお祈り申し上げます」という定型文。いわゆる「お祈りメール」を見るのも、これで何十通目だろうか。大手メーカーの最終面接。手応えはあったはずだった。自分の強みである体力と根性、そしてチームワークへの献身を精一杯アピールしたつもりだった。けれど、結果は無慈悲な不採用通知だけだ。


ネクタイを少し緩め、大きく息を吐き出す。ラグビーなら、タックルされて倒れても、すぐに立ち上がってボールを追えばいい。ルールは明確で、努力は裏切らない。だが、この「就活」というゲームには明確な勝ち筋が見えなかった。何が正解で、何が間違いなのか。評価基準の不透明な暗闇の中を、目隠しをして全力疾走しているような気分だ。


「健太!」


駅前のカフェの前で、聞き慣れた声がした。顔を上げると、そこには西野美咲(にしの みさき)が立っていた。高校時代、俺が所属していたラグビー部のマネージャーであり、今は最愛の恋人でもある。小柄で可愛らしい容姿とは裏腹に、彼女は誰よりも気が強く、そして誰よりも俺のことを考えてくれる女性だ。


「お疲れ様。……顔色、あんまり良くないね」


美咲は俺の顔を見るなり、心配そうに眉を下げた。彼女の手には、俺のために冷やしておいてくれたのだろう、結露したアイスコーヒーが握られている。


「ああ、ありがとう。……さっき、〇〇重工の結果が来てさ。だめだったよ」


俺が力なく笑うと、美咲の表情が曇った。彼女は自分のことのように、いや、俺以上に悔しそうな顔をする。


「嘘でしょ? あの面接、すごく練習したじゃない。あんなに熱意も伝えたのに、人事の人は何を見てるのよ」

「まあ、縁がなかったってことだよ。切り替えて次に行くしかない」

「でも、もう六月だよ? 体育会枠の推薦も使い切っちゃったし……健太、本当に大丈夫なの?」


美咲の声には、明らかな焦りが滲んでいた。彼女は昔からそうだ。俺が怪我をすれば誰よりも早くテーピングを用意し、試合に負ければ俺以上に泣き、勝てば俺以上に喜ぶ。俺の人生を、まるで自分の人生の一部であるかのように背負い込んでしまう。それが彼女の愛だと知っているからこそ、今の俺の不甲斐なさが申し訳なかった。


「大丈夫だよ、美咲。俺にはまだ体力がある。何社だって受けてやるさ」

「体力だけでどうにかなる問題じゃないでしょ! ……ごめん、言いすぎた。でも、私、心配で……健太には、絶対にいいところに入ってほしいの。苦労してほしくないの」


美咲は俺の腕にすがりつくようにして言った。その瞳は潤んでいて、俺への純粋な愛情が痛いほど伝わってくる。俺は彼女の頭を撫でることしかできなかった。


「分かってる。必ず内定取って、美咲を安心させるから」


そう約束して別れたものの、俺の心には鉛のような重りが残ったままだった。


一方、その夜。美咲は自宅のベッドの上で、スマートフォンの画面を睨みつけていた。


『健太のために、私がなんとかしなきゃ』


その強迫観念にも似た思いが、彼女の思考を支配していた。高校時代、彼女のマネジメントのおかげで健太は部活のエースとして輝けた。食事管理、メンタルケア、スケジュールの調整。彼の成功は私の成功。彼の輝きは私の功績。そう信じて疑わなかった。だからこそ、社会という理不尽な壁の前で輝きを失っていく健太を見るのが耐えられなかった。


彼が否定されることは、彼を支えてきた私自身が否定されることと同義なのだ。


そんな時、大学の友人である里奈から連絡が入った。


『美咲ー、彼氏の就活どう? まだ決まってないなら、ちょっといい話あるんだけど』

『いい話?』

『うん。某大手総合商社の採用担当やってるOBの人と知り合ってさ。なんか、特別枠持ってるらしいよ』


総合商社。健太が志望していながら、門前払い同然で落とされた業界の頂点だ。そんなところの採用担当と繋がれるなんて、砂漠でオアシスを見つけたようなものだった。


『会いたい! その人、紹介して!』


美咲が返信するのに、一秒もかからなかった。健太の実力が足りないなら、私が裏口を見つければいい。私が彼を正しい場所へ導いてあげるんだ。それが「内助の功」であり、彼女としての役目なのだから。


数日後。美咲は西麻布にある会員制のラウンジにいた。薄暗い照明、重厚な革張りのソファ、グラスが触れ合う高い音。学生には不釣り合いな大人の空間に、彼女は少し萎縮しながら座っていた。


「へえ、君が西野美咲ちゃん? 写真よりずっと可愛いね」


向かいに座った男、坂本恭一(さかもと きょういち)は、値踏みするような視線で美咲を見つめた。仕立ての良さそうなネイビーのスーツに、左手首には光る高級時計。整髪料で完璧にセットされた髪と、自信に満ちた笑顔。「大手商社のエリート」という肩書きが服を着て歩いているような男だった。


「初めまして。お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」


美咲は緊張しながら頭を下げた。隣には紹介してくれた里奈もいたが、彼女はすでにシャンパンを飲んで上機嫌だ。


「いいよいいよ、堅苦しいのは無しにしよう。俺、そういう体育会系のノリ嫌いじゃないけど、今はプライベートだからさ」


坂本は慣れた手つきで美咲のグラスにシャンパンを注いだ。


「で、彼氏くんが就活で苦戦中なんだって? ラグビー部だっけ。正直言って、今の時代、ただ体力があるだけの脳筋は敬遠されるんだよね。AIがどうとか、ロジカルシンキングとか、そういうのが求められるからさ」


坂本の言葉は棘があったが、今の就活市場の残酷さを的確に突いているように美咲には思えた。


「そうなんです……彼は真面目で、誰よりも努力家なんですけど、それがうまく伝わらなくて」

「分かるよ。企業が見る目がないんだ。でもさ、人事の裏側を知ってる俺から言わせてもらうと、そういう『ダイヤの原石』を拾い上げるのも、俺たち採用担当の仕事なんだよね」


坂本は意味深に微笑み、グラスを揺らした。


「実はさ、俺、今年から『特別推薦枠』っていうのを持たされてるんだ。通常の選考ルートとは別に、俺の一存で最終面接までパスできる、いわゆるバイパスチケットみたいなやつ」

「本当ですか!?」


美咲は身を乗り出した。最終面接までパスできるなら、あとは健太の人柄を見てもらえれば絶対に受かるはずだ。


「うん。でもね、美咲ちゃん。ビジネスの世界には『等価交換』って言葉がある。君も分かるよね?」


坂本が視線を流す。その目は、獲物を狙う爬虫類のようにねっとりとしていた。


「ただでチケットを渡すわけにはいかない。それに、これは会社には内緒の枠だから、リスクもある。……君には、彼のためにリスクを背負う覚悟、あるのかな?」

「覚悟……ですか」

「そう。彼を愛してるなら、彼の未来のために何ができるか。その『誠意』を見せてほしいんだ」


坂本の手が、テーブルの上で美咲の手に重ねられた。ひやりとした指先の感触に、美咲は背筋が震えた。その意味を理解できないほど、彼女は子供ではなかった。


「彼氏くん、このままだと無い内定のまま卒業だよ? フリーターか、良くてブラック企業の営業職。君との結婚なんて夢のまた夢になっちゃうかもね」


坂本は甘い毒を囁くように言葉を紡ぐ。健太が路頭に迷う姿。疲れ果て、自分との将来すら描けなくなる未来。それは美咲にとって最大の恐怖だった。


「……私が、誠意を見せれば、健太は内定をもらえるんですか?」

「約束するよ。俺の名刺、見たでしょ? 業界最大手の看板は伊達じゃない。彼のエントリーシート、俺が書き直してそのまま役員に渡すから」


坂本は美咲の指を一本一本、愛おしむように撫で回した。美咲の脳裏に、憔悴した健太の顔が浮かぶ。彼を救えるのは私だけ。私がここで泥をかぶれば、彼は輝ける。これは浮気じゃない。裏切りじゃない。これは「献身」だ。


「……分かりました」


美咲は震える声で答えた。


「いい子だ。じゃあ、場所を変えようか。詳しい話は、もっと静かなところで」


坂本は満足げに笑い、会計を済ませるために立ち上がった。里奈はいつの間にか別の席の男性グループと盛り上がっており、美咲を気にする様子はない。美咲はふらつく足取りで坂本の後を追った。


店を出て、タクシーに乗り込む。行き先は告げられなかったが、到着したのは煌びやかなネオンが輝く高級ホテル街だった。


エレベーターが上昇する独特の浮遊感の中で、美咲はスマートフォンを取り出した。健太へのLINE画面を開く。


『ごめん、今日はゼミの飲み会で遅くなるね。健太もゆっくり休んでね。大好きだよ』


送信ボタンを押すと同時に、罪悪感で指先が冷たくなるのを感じた。でも、これは必要な犠牲なのだ。自分にそう言い聞かせる。


ホテルの最上階、スイートルームの重厚なドアが開く。中に入ると、夜景が一望できる大きな窓と、キングサイズのベッドが目に入った。


「シャワー、浴びておいでよ」


坂本が上着を脱ぎながら、当然のように言った。美咲は拒絶の言葉を飲み込み、バスルームへと向かう。鏡に映った自分の顔は、青ざめていたが、どこか陶酔したような目をしていて、自分でも気味が悪かった。


(健太、ごめんね。でも、これであなたの未来は約束されるの。私が、あなたを守ってあげるから)


熱いシャワーを浴びながら、美咲は自分を正当化する言葉を呪文のように繰り返した。水滴と共に流れ落ちるのは、健太への貞操か、それとも彼女自身の尊厳か。


バスルームを出ると、バスローブ姿の坂本がワイングラスを片手に待っていた。


「さあ、おいで。君の彼氏への愛、たっぷりと見せてもらおうか」


坂本が広げた腕の中に、美咲は吸い込まれるように歩み寄った。抱きしめられた瞬間、知らない男の香水の匂いが鼻をつき、生理的な嫌悪感が胃の底からせり上がってくる。だが、彼女はその嫌悪感を「健太への愛の証」として無理やり飲み込んだ。


「……お願いします。健太を、採用してください」


美咲は懇願するように言い、自ら坂本の唇に口づけをした。


肌が触れ合い、衣服が剥ぎ取られていく。窓の外に広がる東京の夜景は残酷なほど美しく、二人の影を照らし出していた。美咲の目から一筋の涙がこぼれ落ち、シーツに吸い込まれて消えた。


それは、健太の知らないところで結ばれた、あまりにも汚らわしく、あまりにも愚かな契約の始まりだった。


翌朝、健太は再び強烈な目覚まし時計の音で目を覚ました。

隣に美咲がいないことに安堵と寂しさを感じながら、今日もまたリクルートスーツに袖を通す。


「よし、今日もやるか」


鏡の前で自分を鼓舞する。昨日の美咲の言葉が、胸に温かく残っていた。「必ず内定取って、美咲を安心させる」。その誓いだけが、今の健太を支える唯一の柱だった。


彼が、自分のために恋人が別の男のベッドにいることなど知る由もなく、健太は真っ直ぐな瞳で玄関のドアを開けた。夏の太陽が、残酷なほど眩しく彼を照らしていた。

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