第6話 最後の冬祭り

知らせは、驚くほど静かに、そして拒絶しようのない冷たさを伴ってやってきた。


​ 三月の終わり。作業小屋の重い引き戸が、ガタガタと音を立てて開き、湿った冷たい風と一緒に美咲が入ってきた。


 いつもなら手に持っているはずの、理論値が書き込まれたバインダーも、火薬の純度を測るためのトレイも持っていない。代わりに、彼女の細い指先には、1枚の四つ折りにされた紙切れが握られていた。


​「……決まったわ。避けては通れないみたい」


​ その一言だけで、晴斗には内容のすべてが分かった。


 星火花火店が立つ川沿い一帯は、数年前から大規模な再開発の話が持ち上がっていた。老朽化した古い工場や倉庫、そしてこの時代に取り残されたような花火店をまとめて取り壊し、巨大な商業施設と高層マンションに作り替える計画。


 それは町の人々にとっては、停滞した地方都市に活気を取り戻すための「未来」であり、この店にとっては、積み重ねてきた歴史の完全な「終わり」を意味していた。


​「今年の12月……冬祭りが、星火花火店として上げる、最後の花火になる」


​ 美咲は、その紙を作業台の上に置いた。


町内会と再開発準備委員会からの、正式な依頼書だった。


 冬祭り。


 厳しい北風が吹き抜けるこの町で、夏の華やかさとは対照的に、一年の締めくくりとして静かに花火が上がる唯一の行事。


​「……予算は、どのくらいあるんだ?」


「期待しないで。材料費と人件費の最低限が出るかどうか、ってところね。委員会側は、もう新しい施設に意識が向いてる。最後の花火なんて、ただの形式的なお別れ会程度にしか思ってないわ」


​ 派手な大型の打ち上げは望めない。数も、豪華な演出も揃えられない。


 それは言い換えれば、物量で観客の目を眩ますことのできない、職人の腕の骨格がそのまま露呈してしまう、誤魔化しのきかない仕事であることを意味していた。


​ 源造は、黙ってそのやり取りを聞いていた。


いつも響かせていたコン、コン、という作業音は止まっている。


老人はしばらくの間、視線を落としたまま動かなかったが、やがて作業台の下に置いていた年季の入った木箱を、ギィ、と重苦しい音を立てて引き寄せた。


​ 箱の中には、煤で真っ黒に汚れた古い帳面と、いくつかの厳重に封をされた包みが入っていた。


​「……冬祭りか」


​ 源造が低く呟く。


その声には、廃業を惜しむような感傷は微塵もなかった。 


​「昔はな、あそこで1年分の腕を見せたもんだ。狭い空にどんな絵を描くか。上手くいきゃ、翌年の夏に全国から仕事が舞い込む。下手を打てば、その場で暖簾を下ろす。文字通りの真剣勝負だった場所だ」


​ 源造は包みの1つを手に取り、掌の上でしばらくその重さを確かめるように見つめてから、再び机に戻した。


​「今はもう、そんな命がけで火を上げる時代じゃねえがな。適当に鳴らして、適当に消えりゃ、誰も文句は言わねえ」


​ その声は冷え切っていたが、どこかに自分たちが守ってきたものの価値が踏みにじられていくことへの、消えかかった憤りが混じっているように晴斗には聞こえた。


​「……俺に、やらせてください」


​ 気づけば、晴斗はそう口にしていた。自分でも驚くほど、迷いのない、はっきりとした声だった。

 美咲が、弾かれたように驚いて振り向く。


​「……あなた、何を言っているの? あれは練習じゃないのよ。町のお金を使って、何千人もの観衆の前で上げる、本当の『仕事』なの。0.08グラムの線香花火が数秒咲いたくらいで、何ができるっていうの?」


​「分かってます。身の程知らずだってことも、全部」


​ 晴斗は一度、深く息を整えた。胸の奥が、熱い火を飲み込んだようにヒリついている。


​「でも、今の俺にできることを、全部使いたいんです。派手じゃなくていい。数が少なくてもいい……でも、絶対に落ちない花火を、ちゃんと上げたい。この店が最後だっていうなら、なおさら、中途半端に終わらせたくないんです」


​ 作業小屋に、厚い氷が張ったような沈黙が落ちた。


 源造が、椅子を回して、ゆっくりと晴斗を見た。


その目は、晴斗を値踏みした時よりも、さらに深く、鋭く晴斗の核を射抜こうとしていた。


​「……怖くねえのか。お前が昨夜味わった咆哮は、空の上じゃ100倍、1000倍の力で襲ってくるんだぞ」


​「怖いです。怖くて、今も指先が震えています」


​ 晴斗は、自分の右手を差し出した。そこには、確かにまだ微かな震えが残っている。


​「失敗したら、この店の100年の最後を、俺が台無しにする。その責任を考えたら、逃げ出したいです」


​「それでも、やるか?」


​「それでも、逃げたくありません。逃げたら、一生、自分を理解することなんてできないから」


​ 源造は、短く、鼻から息を吐いた。それは、初めて晴斗を「弟子」としてではなく、一人の「火を扱う表現者」として認めた瞬間の音だった。


​「……条件がある」


​「はい」


​「派手な発色剤は使うな。ド派手な爆音も、夜空を埋め尽くすような数も、いらねえ。そんなもんは、今の星火には似合わねえ」


​ 老人は木箱の奥から、ひと際古びた、煤けた包みを取り出した。


​「炭の火花だけで勝負しろ。火そのものの移ろいを見せる。和火(わび)だ」


​ 晴斗は息を呑んだ。


和火。


江戸時代から続く、日本古来の技法。現代の鮮やかな色彩が溢れる花火とは違い、火薬と炭、そして硝石の配合だけで、オレンジ色の濃淡と、火花の繊細な散り際を表現する、最も難易度の高い分野の一つ。


​「色で誤魔化すことができねえ。あるのは、計算し尽くされた火の動きだけだ。1秒のズレも、0.1ミリの配合ミスも、観客の目の前で醜態として晒されることになる」


​ 源造は、続けて帳面を一冊取り出した。表紙は煤で真っ黒に汚れ、角はボロボロに擦り切れている。ページをめくる源造の手は、どこか震えているようにも見えた。


​「……これ、何ですか」


​「7年前の事故のあとに、瓦礫の中から拾い出したもんだ。星火に残った、唯一の遺産だ」


​ それ以上の説明はなかった。源造は帳面を開き、適当なページを晴斗の前に差し出した。そこには、殴り書きのような数字と、短い走り書きがびっしりと並んでいた。


​『湿度 62パーセント

 乾燥時間 2時間40分

 撹拌回数 1920回

 配合比:硫黄 〇〇、炭 〇〇、硝石 〇〇……』


​「……これ、当時の記録、ですか」


​「そうだ」


​ 源造の声は、地を這うように低い。


​「爆ぜた理由は、今でもはっきりとは分からねえ。だがな、『なぜ分からなかったのか』という事実だけは、ここに残した。……俺はこの時、自信満々で『大丈夫だ』と言った。数字も揃ってた。経験も、20年分あった。……だから、最後の一つの確認を、慢心から省いた」


​ 小屋の空気が、息ができないほど重く張り詰める。美咲は顔を背け、拳を爪が食い込むほど強く握りしめた。


彼女にとっては、思い出したくもない「地獄」の記録なのだ。


​「結果、現場にいた2人が吹き飛んだ。死ななかったのは、ただの運だ。俺の左腕は、その時の『怠慢』への罰だ」


​ 源造は、和火の包みを晴斗の前に、ドスンと置いた。


​「仕事で火を上げるってのは、『きれいに咲かせる』なんて生温い話じゃねえ。『誰も傷つけない』という、途方もない約束を背負うことだ。お前に、その重みが分かるか?」


​ 源造の視線が、晴斗の魂を貫こうとしていた。


 逃げ道はなかった。


 晴斗は、煤けた帳面と、小さな火薬の包みを見つめ、ゆっくりと、深く頷いた。


​「……はい。だからこそ、俺がやります。俺が失敗して、全部を失う覚悟で。誰も傷つけない火を、上げます」


​ 源造は、何も言わずに一度だけ、短く頷いた。


​ その夜。


晴斗は自室で、源造から借りた帳面を開いた。


 和火。炭だけで描く、日本伝統の美学。 


 音を抑え、闇を深くし、光の「消え際」にすべてを懸ける。


​ 彼はノートに新しくペンを走らせた。


​『12月、冬祭り。星火花火店、最後の仕事。

 火を咲かせるんじゃない。

 誰も傷つけないために、火を完全に制御する。

 目指すのは、0.03ミリの和紙に込めたあの静寂を、100メートルの夜空に再現すること』


​ ペンを置き、天井を見上げる。


 自分一人の「修行」は、今日で終わったのだ。


 次に始まるのは、町の人々の想いと、この店が積み上げた誇り、そして事故という過去すべてを背負い、一発の光に変えるための「戦い」だ。


​ 外では、春の冷たい風が依然として吹き続けていた。


 けれど、晴斗の心には、もう迷いも震えもなかった。


 冬祭りまで、残された時間はあとわずか。


 不器用な少年の手の中に、この町の最後の記憶が託された。

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2026年1月10日 20:00
2026年1月11日 20:00

静寂に咲く火 済美 凛 1月6日より新作投稿 @slamdank

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