第5話 最初の蕾
恐怖は、消えなかった。
前日の凄まじい爆鳴が、24時間経った今も耳の奥にこびりついている。
ふとした瞬間に火の匂いを思い出すだけで、右手の指先がわずかに強張り、嫌な汗が手のひらに滲む。
晴斗は星火花火店へ向かういつもの道を歩きながら、何度も無意識に手を握っては開く動作を繰り返した。
逃げ出したいという気持ちが、ないと言えば嘘になる。
安全な、爆発とは無縁の世界へ。
昨日味わった、死を予感させるあの熱風から遠く離れた場所へ。
それでも彼の足が止まらなかったのは、あの爆発の直後、立ち込める煙の中で源造が言い残した、たった1言のせいだった。
ノートを閉じねえ奴だけが、次に進める。
三月の空は低く曇り、川面を走る風は冬の残り香を運ぶように冷たかった。
作業小屋に入ると、いつもの匂いが鼻を突いた。硫黄、炭、和紙。昨日までと同じはずの空気が、今日は少しだけ違って感じられる。それは、この空気がいつでも一瞬で牙を剥き、すべてを焼き尽くす可能性を孕んでいることを知ってしまったからだ。
小屋の奥では、源造がすでに作業台に向かっていた。
美咲はまだ来ていない。
晴斗は、自分の震えを誤魔化すように、無言で机の上にノートを置いた。
開いたページには、昨日の自分が必死に、歪んだ字で綴った記録がある。
火を信用しない。
0.01ミリの違和感は、死への警告。
晴斗は深く息を吸い込み、一度そのノートをパタンと閉じた。
今日は、数を打たない。
そう決めていた。
これまでは、がむしゃらに10本、20本と縒り上げることで経験値を稼ごうとしていた。
だが、今日は違う。条件を限界まで削ぎ落とし、自分の指先が感じるすべてを確実に確認できる「1本」だけを作る。
まず、手を洗う。
三月の冷水に指を浸すと、皮膚の感覚が麻痺するような刺激が走った。指先の熱を徹底的に殺し、清潔な布で丁寧に水分を拭き取る。
次に和紙を選ぶ。昨日と同じ0.03ミリという、透けるほど薄い美濃和紙だ。だが、端材の山の中から、繊維の流れが最も素直で、不純物の混じっていない「完璧な1枚」を10分かけて選び出した。
和紙を持った瞬間、指先に伝わる微かな抵抗が、昨日よりもはっきりと感じられた。
(……聞こえる)
囁き、というほど大げさなものではない。
ただ、和紙を折る際にこちらへ逆らおうとする反発と、素直に従おうとする柔軟さの境界が、指先の皮1枚を通して伝わってくる。
晴斗は慎重に、まるで宝石でも扱うように和紙を折り、精密秤で火薬を量った。
0.08グラム。
秤の針が、1ミリのブレもなく静かに中央で止まるのを、30秒ほどじっと見届けてから、火薬を紙の上へと移した。
いよいよ、縒りの工程に入る。
自然と呼吸が浅くなり、世界が自分の指先1点だけに凝縮されていく感覚があった。
力を入れすぎない。
だが、火薬の自重を逃がしすぎない。
0.03ミリの薄い膜の中で、火薬の粒がどう動いているかを想像する。紙の繊維が張る感触を確かめながら、1ミリ進めては止まり、0.1ミリ戻す。
昨日までなら「遅すぎる、これじゃいつまでも終わらない」と焦っていた工程を、今日はどれだけ時間がかかっても構わない、と完全に受け入れていた。
やがて、火薬を包む「首」の部分に差し掛かる。
目標の太さは1.2ミリ。
晴斗は、そこで一度、完全に手を止めた。
ほんのわずか、0.05ミリほどだろうか。紙の抵抗が不自然に指に引っかかる。
昨日までの自分なら「この程度なら問題ない、誤差の範囲だ」と判断し、そのまま強引に捻りきっていただろう。
だが、今日は違った。その「違和感」の正体が、昨日自分を襲った咆哮の芽であることを知っていた。
晴斗はためらわずに、縒りかけの和紙を慎重にほどいた。
火薬をこぼさないよう、細心の注意を払いながら、もう一度、最初から。
結局、1本を形にするまでに、普段の3倍以上の時間を費やした。
指先は極度の緊張で疲れ果て、集中力も限界まで削り取られていた。
それでも、ようやく縒り上げたその1本は、昨日までの作品に比べると、どこか地味で、大人しそうに見えた。
細く、派手な強さはない。
だが、どこにも無理がない。紙と火薬が、あるべき場所に収まっている。
「……火、つけるぞ」
自分自身に言い聞かせるように、震える声で呟いた。
晴斗はライターを構えた。その瞬間、背後で作業小屋の戸が開く音がした。
「……まだ、そんなことをやってたの」
美咲だった。
いつものように感情を排した冷静な声だが、その視線は、吸い寄せられるように晴斗の手元に向かっている。
「1本だけ。今日は、これしか作らない」
晴斗は短く答えた。それ以上喋ると、集中が途切れてしまいそうだった。
ライターの青白い火が、和紙の先端にゆっくりと近づく。
シュ……。
小さな、微かな音と共に、橙色の火玉が生まれた。
昨日のような、目に刺さる白さはない。
深く、沈み込むような、温かな橙色。
1.2ミリの首に支えられた火玉は、まるで宇宙に浮かぶ惑星のように、静止して膨らんでいく。
晴斗は、瞬きすることさえ忘れ、息を止めた。
パチッ。
最初の火花が、鋭く闇を弾いた。
「松葉」と呼ばれる直線的な火花が、四方へ静かに伸びる。
続いて、2つ、3つ。
火花の勢いは、強すぎず、弱すぎず、常に一定のパルスを刻んでいた。
火玉は、1ミリの揺れも見せない。重力に負けず、和紙の繊維が作り出した1.2ミリの絶妙な強度の中で、0.08グラムのエネルギーを完璧に保持している。
「……」
美咲が、一歩も動かずにそれを見つめていた。皮肉も、論理的な否定も、彼女の口からは出てこなかった。
やがて、火花はさらなる変化を見せる。
勢いよく飛び出していた「松葉」が落ち着き、先端が重力に引かれて優雅に枝分かれを始めた。
「柳(やなぎ)」だ。
ゆっくりと、しかし確実に。黄金の火花が垂れ下がり、空気の中に繊細な線を描き出す。
落ちない。
火玉は、紙の繊維と火薬のバランスを保ったまま、そこに留まり続けている。
晴斗の喉が、無意識に鳴った。
火玉は最後の最後まで、自分の重さを支えきった。
そして、エネルギーを使い果たすように、ゆっくりと、静かに縮んでいった。
ポトリ、という残酷な音は聞こえなかった。
火は、1.2ミリの首の先端で、誇り高く消えた。
晴斗は、しばらく動けなかった。
派手な大輪の花が咲いたわけではない。
観衆の喝采を浴びるような光景でもない。
だが――落ちなかった。
自分の理解が、火の咆哮を抑え込んだのだ。
「……咲いたわね」
美咲が、ぽつりと呟いた。
その声には、先ほどまでの冷たさはなく、どこか遠い日の記憶を辿るような、微かな熱が混じっていた。
「完全じゃない。色の純度も、柳の長さも、まだまだ改善の余地はあるわ。……でも、これは、本当の蕾(つぼみ)よ」
晴斗は、ようやく肺の奥に溜まっていた空気を全て吐き出した。
胸の奥で、ガチガチに固まっていた何かが、ゆっくりとほどけていく感覚があった。
恐怖が消えたわけではない。
今も火を見るのが恐ろしい。
だが、恐怖の向こう側に、理解と対話によって切り拓ける道が確かに続いていることを、彼はその目で確かめた。
作業小屋の奥で、コン、という乾いた音が1つだけ鳴った。
源造が、ずっと手に持っていた道具を作業台に置いた音だった。
「……覚えとけ」
老人は、こちらを見ようとはしなかった。
ただ、その背中は、昨日よりもわずかに饒舌に見えた。
「今のは、成功じゃねえ。……火が、お前を認めた。ただの許可だ」
晴斗は、その言葉の意味を深く、深く噛み締めた。
成功ではない。
まだスタートラインに立っただけだ。
火が、ほんの一瞬だけ、自分に微笑んだ。その奇跡のような一瞬が、これから続く、果てしない旅路への招待状なのだ。
晴斗は震える手でノートを開き、新しいページに、今度は力強い字で書き足した。
『条件が揃った時、火は必ず応える。
自分を信じるな、理屈を信じろ。
無理をしない。焦らない。
本物の蕾は、静かに咲く』
小屋の外では、まだ春の冷たい嵐が吹き続けていた。
それでも、星火花火店の作業小屋の中には、消えたはずの火の、確かな温もりがいつまでも残っていた。
それが、晴斗にとって、そして崩れかけていた星火花火店にとって、再生への最初の「蕾」だった。
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