第4話 火の咆哮、手の震え

火の音を、晴斗は初めて「恐怖」として聞いた。


 それは線香花火がパチパチと弾ける、あの可憐で繊細な音ではなかった。

腹の奥を直接太い棍棒で殴りつけられたような、低く重い衝撃。

空気そのものが意思を持って怒り、凄まじい質量で押し返してくる感覚。火が牙を剥き、獲物の喉笛を狙って飛びかかってきた――そうとしか思えない咆哮だった。


​ 原因は、ほんのわずかな油断だった。


 32秒。


 昨日の記録が、晴斗の中で想像以上の手応えとして残っていた。0.03ミリという、向こう側が透けて見えるほど薄い和紙。その繊維の囁きに耳を澄ませ、指先の熱を冷水で殺し、慎重に縒り上げた1.2ミリの首。火玉が丸く膨らみ、松葉が弾け、柳へと移ろうとしたあの瞬間の光景。確かに、自分は和紙と対話できていた。その全能感に近い感触が、晴斗の目を曇らせていた。


​「もう1回、昨日と同じ条件で。いや、昨日よりもさらに精密に」


​ その考えが脳裏をよぎった時、慎重な確認と無謀な挑戦の境界線は、すでに曖昧になっていた。


 ノートに記した条件を忠実になぞる。美濃和紙を折り、正確に0.08グラムの火薬を量り取る。仕上がりの首の太さは1.2ミリ。撚りも均一。理屈はすべて頭に入っているはずだった。


​ ――だが、縒り上げる最後の瞬間、指先が告げた微かな違和感を、晴斗は「誤差」だと判断してしまった。和紙の繊維が、ほんのわずかに不自然な抵抗を見せた。撚りのピッチが、1ミリの10分の1ほどズレた。普段の彼なら気づいたはずのその警告を、昨日の成功という残像が塗りつぶしてしまったのだ。


​ 点火した瞬間、異変ははっきりと現れた。


 火玉の色が、昨日とは明らかに違っていた。


 温かみのある橙ではない。目に刺さるような、白に近い、鋭く冷たい光。


 それを「美しい」と感じるよりも早く、晴斗の背筋に氷のような冷たいものが走り抜けた。


​「……離れて!」


​ 美咲の鋭い叫び声が、小屋の空気を切り裂いた。

 次の瞬間、視界が真っ白に染まった。


 バン、と鼓膜を震わせる爆鳴と共に、空気が裂けた。


 物理的な衝撃が波となって胸を叩き、晴斗は反射的に両腕で顔を庇った。熱風が頬をかすめ、無数のオレンジ色の火花が視界の端で狂ったように暴れ狂う。キーンという高い耳鳴りだけが残り、世界からすべての音が奪い去られたように感じられた。


​ 火の咆哮。


 それは時間にして1秒にも満たない一瞬の出来事だったが、晴斗にはそれが永遠のように長く感じられた。


 ようやく視界が戻り、晴斗は自分の手元を恐る恐る見下ろした。


 右手が、自分の意思とは無関係に、小刻みに震えていた。


 痛みはない。


だが、指先が石のように強張り、自分の身体ではないように遠く感じられる。どれだけ力を込めようとしても、制御が効かない。


​「指、動く? 感覚はある?」 


​ 美咲が駆け寄り、普段の冷徹なトーンとは違う、切迫した低い声で問いかけてきた。


「……動く。動くけど……震えが、止まらないんだ」


 美咲は無言で晴斗の右手を取り、火傷や裂傷がないかを素早く確認した。その動きには迷いがなく、同時に震える晴斗を安心させるような確かさがあった。


​「直撃はしてないわ。0.08グラムという極小の火薬量だったのが、不幸中の幸いね。……でも、この音。この匂い……」


​ 美咲の声が微かに震え、彼女は思わず自分の肩を抱くように腕を回した。彼女の瞳には、目の前の小さな失敗ではなく、もっと巨大な、黒煙に包まれた過去の光景が映っているようだった。


​ 美咲はそう言って晴斗の手を離すと、小屋の奥へと視線を向けた。


 源造が、作業台の前で石像のように立ち尽くしていた。


 いつも小屋の中に響いているはずの、コン、コン、という一定のリズムを刻む音は止まっている。


老人は、ただ自分の両手をじっと見つめていた。その手は、晴斗の震える手よりも深く、重い傷跡を刻んだまま、微動だにしない。


​「……やっぱり、こうなるのね」


​ 美咲が、唇を噛み締めるようにして呟いた。


 晴斗はその言葉の真意を考える余裕もなく、自分の震えの止まらない右手から目を離せずにいた。


もし、この震えがこのまま治らなかったら。


もし、職人にとっての命である指先の繊細な感覚を、今の爆発で失ってしまったのだとしたら――。


​ 源造が、ゆっくりと顔を上げた。


「だからだ」


​ 低く、枯れ木が擦れるような掠れた声。その声には、何十年もの間、火と対峙し続けてきた男にしか出せない重圧があった。


 源造は、重い足取りで一歩、また一歩と晴斗に近づいてくる。その鋭い視線からは、どこへも逃げ場がなかった。


​「だから、分かった気になるなと言ったんだ。火はな、きれいだとか、尊いだとか、そんな人間の勝手な言葉を聞いちゃくれねえ。隙を見せりゃ、次の瞬間には喉笛に噛みついてくる獣だ」


​ 源造は、自分の左手を晴斗の目の前に差し出した。


 節くれ立ち、火傷の痕が幾重にも重なり、皮膚が変色して引き攣れたその手。


「俺も同じだった。7年前、俺は10号玉……尺玉の製造現場にいた。何千発という花火を作ってきた自負があった。火薬の配合も、星の乾燥具合も、すべてを完璧に理解したつもりでいた。だが、実際にはその日の湿度が、計算よりもわずか1パーセントだけ高かった。あるいは、火薬の撹拌(かくはん)が、1000回に1回、ほんのわずかだけ甘かったのかもしれねえ」


​ 源造は指を握ろうとして、途中で力なく止めた。


「1回うまくいっただけで、火を信用しちまったんだ。神様が微笑んでくれたと勘違いした。その慢心の報いが、あの爆発であり、この動かねえ手だ。線香花火だろうが、尺玉だろうが、火にとっては関係ねえ。0.01ミリの妥協が、一瞬で地獄を連れてくる」


​ 小屋の中に、肺が潰れそうなほどの重い沈黙が落ちた。


 美咲は顔を背け、拳を固く握りしめている。


 晴斗は、自分の目の前で起きた小さな爆発が、源造がかつて経験した巨大な惨劇と根底で繋がっていることを悟った。火を扱うということは、常にその深淵と隣り合わせにいることなのだ。


​「……怖くなったか。逃げたくなったか」


​ 源造の問いに、晴斗は正直に答えた。嘘をつく余裕すら、今の彼には残っていなかった。


「はい。正直、今この瞬間も、怖くて逃げ出したいです。火を見るのが、恐ろしいです」 


​ 源造は短く、鼻で笑った。それは嘲笑ではなく、どこか満足げな響きを含んでいた。


「それでいい。怖がれねえ奴、火を舐めてる奴は、いずれ自分だけでなく他人も殺す。その恐怖を忘れるな」


​ 源造は晴斗の肩を、重い右手で一度だけ叩いた。


「だがな。怖くなって足が震えても、ノートを閉じねえ奴だけが、火の向こう側にある景色を見ることができる」


​ 晴斗は、まだ小刻みに震えている右手で、机の上に置かれたボロボロのノートをゆっくりと開いた。


 指先の感覚はまだ完全には戻っておらず、ペンを握る手は頼りなかった。それでも、彼は文字を綴った。字は歪み、線は震えていたが、彼は今起きたことを、その恐怖を、必死に紙に刻み込んだ。


​『爆ぜた原因:縒り工程での繊維の抵抗を無視したことによる、火薬密度の不均一。

 現象:火玉の色が白に変化=燃焼温度の過多。1.2ミリの首でも物理的に維持不可。

 身体的反応:右手の震え。恐怖による硬直。

 教訓:火を信用しない。0.01ミリの違和感は、死への警告である。尺玉も線香花火も、失敗の重みは火にとっては等しい』


​ 書き終えた頃、不思議と右手の震えはわずかに弱まっていた。言葉にすること、理解しようと努めることが、形のない恐怖に輪郭を与え、彼を現実に繋ぎ止めていた。


​「……今日は、もう終わりなさい」


​ 美咲が静かな声で言い、晴斗の手から道具を取り上げた。


「火を扱うのは、心と身体が完全に落ち着いてから。それまでは、今日の記録を100回読み返しなさい。計算をやり直しなさい。理解が足りないから、身体が震えるのよ」


​ 晴斗は黙って頷いた。


美咲の言葉は相変わらず厳しかったが、その裏に、晴斗が「こちら側」へ踏みとどまることを望んでいるような、微かな響きを感じ取った。


​ 小屋を出ると、外はさらに荒れ模様になっていた。


 春の嵐が激しく吹き荒れ、周囲の古い木々が悲鳴のような音を立てて揺れている。


冷たい雨が晴斗の頬を叩き、爆発の熱を奪っていった。


 その嵐の音を聞きながら、晴斗は自分の胸の内を静かに確かめた。


​ 恐怖は、消えていない。


 火を思い出すだけで、指先がピリピリと痺れるような感覚がある。


 だが、後悔はなかった。


 火の本当の恐ろしさを知り、自分の限界と慢心を知った今、もう以前の「憧れだけの自分」に戻ることはできない。


それは単なる恐怖への後退ではなく、職人としての、あるいは火と向き合う表現者としての、別の、より深く険しい段階に足を踏み入れたという確信だった。


​ 源造が、作業小屋の入り口で一度だけ立ち止まり、晴斗の方を振り返った。


「……明日も来い。10分早く来い」


​ それだけ言って、老人は闇の向こうへと消えていった。


 晴斗は震えの残る手を胸の前で固く握りしめ、冷たい夜の空気を深く、深く吸い込んだ。


​ 恐怖を知った者だけが、本当の意味で火と向き合える。


 その言葉の意味が、爆発の衝撃と共に、晴斗の骨の奥底まで染み込み始めていた。

 

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