第3話 和紙の囁き
惨敗だった。
前夜、畳の上に落ちて冷たく消えた火玉の光景が、朝になっても晴斗の頭から離れなかった。確かに1回は咲きかけたのだ。
火玉が丸く膨らみ、最初の火花が弾けた瞬間、あの小さな光は生き物のように脈打っていた。暗闇の中で震える橙色の雫は、この世の何よりも尊い生命を宿しているように見えた。
しかし次の瞬間には、耐えきれない重力に負けたようにポトリと落ち、床に触れた途端、何事もなかったかのように消えてしまった。
咲くことと、咲き続けること。
その間にある絶望的なまでの差。
想像していた以上にその距離は遠く、険しいという事実だけが、晴斗の胸の奥に鉛のような重さで居座っていた。
三月の朝。星火花火店の作業小屋は、底冷えのする冷気に包まれ、ひんやりと湿っていた。
入り口の隙間から差し込む薄い光が、空中に舞う細かな煤(すす)を照らしている。硫黄と炭、そして和紙の匂いが混ざり合った独特の空気。晴斗は、昨夜の自分が残した失敗の跡と向き合っていた。
床に残った黒い焦げ跡。それを、水に濡らした雑巾で何度も、10回、20回とこする。
黒い円は、力を入れてこすれば徐々に薄くはなるが、完全には消えてくれない。まるで失敗そのものが古い畳の奥深くに染み込み、消し去ることのできない過去としてそこに居座っているかのようだった。
「……消えないな」
晴斗は小さく呟き、雑巾を絞った。
小屋の奥では、源造がいつもと同じ位置、同じ姿勢で作業台に向かっていた。
コン、コン、コン、コン……。
一定の間隔を保ち、0.01ミリの狂いもなく響き続けるその音は、失敗した晴斗を叱責するでもなく、
かといって励ますでもなかった。
ただ、ここでは失敗も成功も関係なく、同じ時間と速度で技術が積み重なっていくのだと淡々と告げるメトロノームのように聞こえた。
「だから言ったじゃない。無駄だって」
不意に背後から冷たい声が落ちてきて、晴斗は雑巾を握ったまま、跳ねるように振り返った。
美咲がそこに立っていた。銀色のトレイを片手に持ち、その上にはいくつかの試験器具と、白く滑らかで質の良さそうな紙が整然と並べられていた。
彼女の瞳には、相変わらず感情の揺らぎは見られない。
「……おはよう、美咲さん」
「挨拶はいらない。時間の無駄だから」
美咲は晴斗の返事を待つことなく、作業台の端に置かれた大学ノートを取り上げた。
彼女は無言でページをめくっていく。パラ、パラと紙がめくれる音が、静かな小屋の中にやけに大きく響いた。
しばらくして、彼女の眉がわずかに寄った。
「何これ。『悲しそうに落ちた』……『一生懸命燃えた』?」
「……そう見えたんだ。俺には」
晴斗が少しきまり悪そうに答えると、美咲は即座にノートを机に叩きつけた。
「花火は感情で燃えない。火薬に心なんてないわ」
彼女はため息をつき、ポケットからペンを取り出した。そして、晴斗が必死に書き留めた言葉の数々に、無慈悲なバツ印を次々と入れていく。
「必要なのは燃焼速度とガス圧、それから紙の撚り(より)。あなたは全部、自分の感想で処理してる。そんな主観的な情報、次に活かせるわけがないでしょ。いい、今回使っている和紙の厚みは、わずか0.03ミリ。向こう側が透けて見えるほど薄い。これを撚って、正確に1.2ミリの太さの『首』を作らなきゃいけないの。0.08グラムという、この紙にとっては巨大な火薬の重さを支えるためには、1.2ミリという数字は絶対なのよ。物理法則を甘く見ないで」
美咲はノートの余白に、迷いのない筆致で簡単な図と数式を書き込み始めた。
直線と曲線。酸素供給量と炭素の燃焼比率。晴斗が感じ取った曖昧な生命の正体が、彼女の手によって冷徹な数字と記号に解体されていく。
「昨日のあなたの失敗は、撚りが均一じゃなかったから。和紙には繊維の向きがあるの。それを無視して力任せに捻れば、燃え進む速度が左右でズレる。重心が偏って、1.2ミリという太さの中に込めた強度が保てなくなる。火玉のバランスが崩れて落ちるのは、物理法則として当たり前のことよ」
美咲はトレイから1枚の紙を取り上げ、晴斗の目の前に掲げた。
それは、これまで晴斗が使っていた練習用の和紙とは、明らかに艶が違った。
「これは美濃和紙。厚みは0.03ミリしかないけれど、繊維が長くて腰がある。……父が、7年前の事故の前までメインで使っていた紙よ」
「源造さんが……」
「今はもう使ってない。指の神経が死んで、この薄い紙が指先に伝える微かな反発に負けるから。今の父が作っているのは、市販の扱いやすい紙を使った線香花火。……でも、あなたは違うんでしょ。あの10年前の夜の色を見に来たんだから」
美咲の言葉に、晴斗は息を呑んだ。
あの夜、世界を静寂で包んだあの1発。
その美しさを生み出すには、指の熱ですら歪んでしまう0.03ミリの和紙を制御し、正確に1.2ミリの首を縒り上げるだけの技術が必要だったのだ。
「この紙の抵抗を、力で消そうとしないで。繊維の向きを揃えて、紙がなりたがっている形に指を添える。1.2ミリという極限の精度を、感覚じゃなく、数字として理解しなさい」
美咲は美濃和紙を晴斗の掌に押し付けた。
晴斗は、その感触を指先で確かめる。
0.03ミリという薄さは、まるで皮膚の一部になったかのように頼りない。しかし、指の腹を滑らせると、そこには確かに和紙が持つ「骨」のような繊維の強さを感じることができた。
作業台に戻る前に、晴斗は小屋を出て、外の水道へと向かった。
三月の井戸水は、突き刺さるように冷たい。指先を水流に晒し、感覚が麻痺するほどまで冷やし込む。1分、2分と冷やす。そうすることで、自分の体温による火薬への干渉を最小限に抑え、0.03ミリの紙を指の熱で湿らせないようにするのだ。
小屋に戻り、再び座る。
トレイから精密秤へと視線を移し、0.08グラムを量り取る。
ほんのわずかな、黒い粉末。これが1人の人間の人生を狂わせ、あるいは救いもする。
晴斗は美濃和紙を折り、火薬を包み込んだ。
昨日までの力任せではない。美咲の言った繊維の向きを意識し、紙が求める撚りの強さを探る。0.03ミリの薄い膜を通して、和紙の繊維が呼吸し、張る感触が、はっきりと伝わってきた。
じわり、と額に汗が滲む。
1ミリ進めては、少し戻す。
時間はかかった。1本を縒り上げるだけで、1時間が経過していた。
出来上がった1本は、昨日よりも細く、しかしどこか鋭い意志を宿しているように見えた。
「火、つけてもいいかな」
「……どうぞ。まあ、結果は目に見えてるけど」
美咲はトレイを片付けながら、素っ気なく答えた。だが、彼女が小屋を出ていこうとしないのを、晴斗は見逃さなかった。
晴斗はライターを点け、和紙の先に火を近づけた。
シュ……。
小さな、橙色の火球が生まれた。
昨日のものより、色が深く、そして重心が一切揺れていない。
パチッ。
最初の火花が飛んだ。続いて2つ、3つ。
それは松葉と呼ばれる、勢いのある直線的な火花だった。
暗い小屋の空気を切り裂き、黄金の針が4方向に突き刺さる。その鋭い光景に、晴斗は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「……昨日より、飛んでる。勢いが違う」
「撚りが均一になった分、内部のガス圧が安定したのね。1.2ミリという細さの中に、しっかりと強度が生まれてる。だから、燃焼効率も上がってる」
美咲がいつの間にか、すぐ隣に立っていた。彼女の目もまた、その小さな火花をじっと見つめている。
火花は次第に勢いを増し、次に優雅な枝分かれを見せる柳へと移ろうとした。
その瞬間、火玉が、ぶるりと小さく震えた。
「あっ……」
晴斗が声を上げた時には、火玉は力なく畳に落ちていた。
ジュ、という微かな音を立てて、闇が戻る。
「32秒。昨日の倍ね」
美咲は淡々とストップウォッチを止めた。
「でも、失格。落ちた火玉は、もう花火じゃない。ただの火種よ」
晴斗は焦げ跡を見つめ、膝の上で拳を握った。
だが、昨日のような打ちのめされた感覚はなかった。
落ちるまでの32秒間。その中で、自分は確かに0.03ミリの和紙の繊維と対話をしていた。美咲の言う理屈が、自分の指先を通じて現実の現象へと変換される過程を、確かに感じ取ったのだ。
晴斗はノートを開いた。
バツ印だらけのページの次に、新しく筆を走らせる。
『美濃和紙(厚み0.03ミリ)。撚りを均一に。力でねじらない。首の太さを1.2ミリに維持する。紙の抵抗を指先で殺さず、火薬の通り道を作る。記録:32秒』
自分には才能はない。不器用で、センスなんて言葉からは程遠い場所にいる。
けれど、こうして1つずつ理解を積み重ねていけば、いつかはあの10年前の夜の空に届くのではないか。
暗闇の中で、わずかに前が見えたような気がした。
小屋の奥。
それまで1回も手を止めなかった源造が、ふと作業を休め、晴斗の背中と、机の上に開かれたノートに鋭い視線を向けていた。
「……ふん」
老人は誰にも聞こえないほど小さな鼻鳴らしを1回落とすと、再びコン、コンと一定のリズムで作業を再開した。
その音が、昨日よりも少しだけ、晴斗の耳には優しく響いた。
春の嵐が、小屋の外で激しく吹き荒れていた。
けれど、晴斗の心には、もう迷いはなかった。
理解できないなら、理解できるまで繰り返す。100回でも、1000回でも。
1歩ずつ。たった0.1ミリずつでも。
1.2ミリという極小の世界の先に、世界中の夜空を塗り替える未来があると、彼は信じ始めていた。
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