第2話 0.08グラムの洗礼
小さな、あまりにも小さな紙の包みを机に置き、晴斗は深く息を吐いた。
六畳一間の自室。古びた木製の学習机の上には、源造から渡された火薬の包みと、近所の文房具店で買い込んできた薄手の和紙、そして精密秤が並んでいる。秤の表示は、電源を入れてもいないのに、まるでこちらを試すかのように静まり返っていた。
窓の外では、春を告げる風がガタガタと建付けの悪いサッシを揺らしている。その音はやけに遠く、代わりに耳の奥では自分の心臓の音だけが、重く響いていた。
ドクン、ドクン。
「……まずは、やってみるしかない」
呟いても、不安は消えない。
包みの中にあるのは、たった 0.08グラム。
数字にすれば簡単だが、実感が伴わない。耳かき一杯にも満たない量で、火は咲くという。あの夜に見た、命のような光が。
晴斗は和紙を細長く切り分けた。線香花火の「手持ち」となる部分だ。指先で触れると、思った以上に薄く、頼りない。少し力を入れれば、簡単に破れてしまいそうだった。
ピンセットを手に取り、火薬を掬う。
黒い粉は、想像していたよりも細かい。砂ではない。煤に近い。光を吸い込むような色をしている。
そっと和紙の端に乗せた、その瞬間だった。
指先が、わずかに震えた。
さらり、と音もなく、数粒の火薬が机の上にこぼれ落ちる。
「あ……」
それだけで、心臓が跳ね上がった。
ほんの数粒。誤差と言えば誤差だ。だが、誤差かどうかを判断する基準を、晴斗はまだ持っていない。
親方の声が脳裏をよぎる。
言い訳は聞かない。
晴斗は、こぼれた粉を指の腹で丁寧に集め、紙の上に戻した。静電気で指に吸い付く感触が、生々しく伝わってくる。まるで、火薬がこちらを拒んでいるようだった。
縒(よ)る。
頭では分かっている。
強すぎれば紙が裂け、弱ければ火薬が逃げる。中で偏れば、火玉は育つ前に自重で落ちる。
だが、分かっていることと、できることは違った。
和紙を斜めに折り込み、指先で捻る。
その瞬間、じわりと汗が滲んだ。
汗を吸った和紙は、縒ろうとした途端、無残にも潰れた。
「……くそ」
一枚目、失敗。
二枚目。今度は力を抜いたつもりだったが、縒りが甘く、形が歪になる。
三枚目。慎重になりすぎて、途中で火薬が逃げた。
机の上に、失敗作が増えていく。
それらは「線香花火」とは到底呼べず、ただの紙屑にしか見えなかった。
時計を見ると、すでに深夜一時を回っている。
天才ではない。
それは分かっていた。
だが、ここまで一歩も進めないとは思わなかった。
晴斗は、失敗作の山を呆然と見つめた。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
「……火薬は、生きてるんだ」
昼間に見た源造の手が、ふと脳裏に浮かぶ。
火傷だらけで、節くれ立った手。
あの手は、才能の証じゃない。この理不尽な繊細さと、何十年も戦い続けてきた痕跡なのだ。
それでも、やめる理由にはならなかった。
晴斗は、新しい和紙を手に取った。
指先の震えを抑えようと、深く息を吸い、ゆっくり吐く。
縒っては、解く。
解いては、縒る。
進んでいる実感は、まるでない。
それでも、時間だけが過ぎていった。
夜が白み始める頃、晴斗はようやく手を止めた。
指先は熱を持ち、細かな痛みが走っている。
――まだ、何も掴めていない。
だが、逃げる気にもなれなかった。
包みの中に残った火薬を見つめながら、晴斗は思う。
これは失敗ではない。
洗礼だ。
翌朝、星火花火店の門をくぐった瞬間、晴斗は自分の体が思っていた以上に重いことに気づいた。
寝不足のせいだけではない。
一晩中、指先に神経を張り付けたまま過ごした疲労が、腕から肩、背中へと沈殿している。
作業小屋では、すでに源造が昨日と同じ位置に立ち、同じリズムで作業をしていた。
コン、コン、という乾いた音。
それは時間を刻む音であり、ここではそれ以外の基準が存在しないことを示している。
「……おはようございます」
声をかけても、返事はない。
だが、追い返されもしない。
晴斗は小屋の隅に場所を借り、黙って道具を広げた。
昨夜よりも、動作が遅い。
それが悪いことなのか、良いことなのかは分からなかった。
和紙を切り、火薬を量る。
昨日より慎重に、昨日よりも遅く。
それでも、震えは完全には止まらない。
縒ろうとした瞬間、和紙がわずかに歪む。
たったそれだけで、全体のバランスが崩れたことが分かる。
「……違う」
誰に向けた言葉でもない。
そこに、冷たい影が差した。
「一晩やって、それ?」
振り返らなくても分かる。
美咲だった。
彼女はバインダーを脇に抱え、作業台に視線を落とす。
そこに並んだ失敗作を、一瞬で理解した顔をした。
「縒りの強さが、毎回違う」
「……分かってる」
「分かってないわ」
美咲は即座に言い切った。
「あなた、指先の状態を無視してる。力の問題じゃない。湿度と体温」
彼女は晴斗の手を一瞥する。
「その手、熱持ってる。朝からそれじゃ、火薬の湿り方が一定にならない」
言われて初めて、掌の熱に気づいた。
確かに、じんわりと汗ばんでいる。
「花火はね、ねじ伏せるものじゃない」
美咲はそう言って、隣に腰を下ろした。
「火薬が燃えたい通りに、道を作る作業なの。あなたはまだ、命令しようとしてる」
彼女は新しい和紙を一枚取り、手際よく切り揃える。
その動きには、一切の迷いがない。
「見てなさい。一度だけ」
火薬を乗せる。
縒る。
動きは最小限で、無駄がない。
指先が紙の上を滑るたび、和紙は抵抗することなく形を変えていく。
まるで、最初からそうなると決まっていたかのように。
出来上がった一本は、細く、まっすぐで、均一だった。
晴斗は息を呑んだ。
「……すごい」
「すごくない。理論通り」
美咲は淡々と答える。
「紙の繊維の向き、火薬の重心、指先の湿分。それを揃えれば、結果は必ず同じになる」
彼女はその線香花火を机に置いた。
「父さんは、左手の感覚が鈍くなってから、その“なんとなく”ができなくなった。だから私は全部数値化した」
一瞬、言葉が途切れる。
「……あなたがやろうとしてるのは、その何千倍も不確かな道よ」
突き放すような言葉。
だが、そこには微かな焦りが混じっているように晴斗には感じられた。
「美咲さん」
「何?」
「理屈は全部ノートに書く。紙の向きも、重さも、全部」
晴斗は言葉を選びながら続ける。
「でも、指先がまだ納得してない。あと一万回やれば、体も理解してくれると思う」
美咲は、一瞬だけ目を見開いた。
「……無駄よ」
そう言い残し、立ち上がる。
だが、扉に手をかけたところで、振り返らずに言った。
「……紙を縒る前に、手を冷水で洗ってきなさい。熱を持った指じゃ、湿気が狂う」
扉が閉まる。
晴斗は自分の掌を見つめた。
そこに残ったのは、痛みと、熱。
外の水道で手を洗う。
三月の水は、震えるほど冷たい。
感覚が薄れるまで指を冷やし、丁寧に水分を拭き取る。
戻ってきたとき、指先はひんやりとして、どこか落ち着いていた。
再び、和紙を取る。
0.08グラム。
縒っては解き、解いては縒る。
夕闇が迫り、裸電球が灯る。
指先に、マメが潰れたような痛みが走る。
それでも、晴斗はノートに書き続けた。
和紙の厚み。
室内温度。
指先の感覚。
夜八時。
源造が作業を切り上げ、無言で小屋を出ていく
。
晴斗は一人残り、ようやく形になった一本を見つめた。
試験の第一段階。
点火。
火を近づける。
シュッ。
橙色の火玉が、ゆっくりと膨らむ。
蕾が、震える。
パチッ。
小さな火花が一つ、夜の闇に散った。
「……咲いた」
呟いた、その直後だった。
火玉は耐えきれなくなったように落ち、コンクリートの床で冷たく消えた。
完全な失敗。
「咲く」ことと、「咲かせ続ける」こと。
その間にある、果てしない距離。
晴斗は暗闇の中で、しばらく立ち尽くしていた。
だが、視線は落ちなかった。
ノートを開き、鉛筆を走らせる。
失敗の理由は、まだ分からない。
それでも、書き残す。
理解できるその日まで。
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