第4話 影を見る人
部屋は、静かだった。
装飾は少ない。
香も焚かれていない。
人の気配だけが、整えられている。
十兵衛は、畳の縁を踏まぬ位置で止まった。
奥に座る男は、こちらを見ていない。
書付に目を落とし、指先で紙を押さえている。
その間、十兵衛は視ようとした。
――だが、何も視えない。
一歩先。
半歩先。
動きの兆し。
どれも、霧のように掴めなかった。
十兵衛の胸が、わずかにざわつく。
これまで、視えなかった相手はいない。
避けられぬ未来も、必ず歪みとして現れた。
だが、この男の前では、
歪みそのものが、存在しない。
「妙な動きをする、と聞いた」
男は、顔を上げずに言った。
声は低く、張りがない。
だが、部屋の空気が、その一言で定まった。
十兵衛は答えなかった。
答えようとした先が、
やはり視えなかったからだ。
男は、ゆっくりと書付を置いた。
その動きには、無駄がない。
同時に、急ぐ気配もない。
「名は」
問われ、十兵衛は即座に答えた。
「十兵衛」
男は、初めて顔を上げた。
視線が合う。
――ここだ。
十兵衛は、そう思った。
だが、何も起きない。
怒りも、殺気も、試すような圧もない。
ただ、見られているという感覚だけが残る。
男は、十兵衛を測っていた。
一歩先ではない。
今まで積み重ねてきた、すべてを。
「天下は、表では動かぬ」
男は言った。
「勝った者の言葉が、歴史になる。
だが、勝つ前に動く者がいる」
十兵衛は、息を詰めた。
それは、自分の役割を言い当てられているようだった。
「影だ」
男は、淡々と続ける。
「影が動くから、表が形を保つ」
十兵衛は、理解した。
この男は、
自分と同じものを見ている。
だが、見ている方向が違う。
自分は、未来を覗く。
この男は、未来を作る。
「お前を、影にする」
それは命令だった。
だが、拒む理由が見当たらない。
「名を与える」
男は、短く言った。
「影康」
その二字を聞いた瞬間、
十兵衛の中で、何かが静かに切り替わった。
ここから先、
自分は前に立たない。
前に立つ者を、
後ろから支える。
――生きるために。
十兵衛は、深く頭を下げた。
「御意」
その言葉が、忠誠なのか、
それとも、逃げなのか。
この時の十兵衛には、
まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、
この男の前では、未来が視えないということだった。
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