頂点捕食者

深夜。薄暗い部屋で男は錠剤を一息に飲み下した。

「気分はどう?」

「不味い」

答えを聞いたケミストが笑う。

「味は二の次で良いって聞いてるからねぇ」

ケミストは男から空のグラスを受け取り、代わりに追加の錠剤を手渡した。

「効きが足りないと思ったら飲んでもいいよ。まぁ、死にはしないだろうからさ」

その時、車の到着を知らせるベルが鳴った。


車に揺られながら、男はリュックからファイルを取り出した。中には日焼けした新聞記事が二枚収められている。

「違反者には厳正なる処罰を」

そこにはアフリカにルーツを持ち、「最速の猛獣」と渾名された男の凋落が記されていた。だが、それも今日までの話だ。男はもう一枚の記事に視線を移す。

「サラブレッドの躍進。冬の時代からの脱却」


猛獣と呼ばれた男と、ケミストとの出会いは一年前まで遡る。

ある日の深夜労働からの帰路、男は競技場の照明が輝いているのに気がついた。しかも完全武装の警備員が十数名、周囲を巡回している。違和感を覚え、競技場を見上げていると見知らぬ男性から声を掛けられた。

「興味あるかい?」

男に声をかけたケミストは、返答を待たずして入り口に向かっていった。通用口を守っていた屈強な男にカードを提示し、何食わぬ顔で中に入っていく。男も後に続いたが、警備員がそれを咎める事はなかった。ケミストを追って通路を抜ける。

その先に広がっていたスタジアムの光景は男の予想だにしないものだった。深夜にも関わらず席を埋め尽くす観客は、皆一様にフォーマルウェアに身を包んでいた。ボディガードを侍らせている人物も多い。ケミストは退屈そうに言った。

「各国の富裕層だ。政府の高官や、企業の重役なんかもいる」

だが、異常なのは観客だけではなかった。異常に肥大した筋肉を持つ選手。両脚が未知の形状の義足に置き換わっている選手。パワードスーツに全身が覆われている選手。肌の違いなど些細に思えてしまう程に、スタートを待つ選手の姿は常軌を逸していた。

「なんだよ、これ……」

「人体改造、違法薬物、なんでも来いだ」

男がケミストを振り返ると同時に号砲が鳴った。

「この大会には合法、非合法を問わず、世界中の人体改造の成果が集まっている。展示会のようなものだと思ってくれれば良いよ。参加条件は一つ。『人権を持っていること』だ」

歓声も、声援もない。その価値を確かめるように、観客は選手のパフォーマンスを静観している。

 ケミストは徐に向き直り、男の名前を呼んだ。

「——君は高校時代に大会記録を連発。大学でもその活躍が有力視されたが、一年前の薬物違反により事実上大学陸上界を追放。その結果、プロ入りは絶望的になった。そうだね?」

押し黙る男に、ケミストは続けて言った。

「僕と組んで復讐してみたくはないかな?」

「復讐?」

ケミストは力強く頷いた。

「そう。君は濡れ衣を着せられ、未来を不当に奪われてしまった。ならいっそ開き直れば良いじゃないか。何でもありのこの世界で、真の人類最速の称号を手にしたくはないかい?」

久しく感じていなかった、高揚感が身体中を巡る感覚があった。

「真の、人類最速……」

「君を嵌めた連中なんて捨て置けば良い。来年の今頃には全盛期のウサイン・ボルトだって君の敵じゃないよ」

表示された一着の記録は九秒五二だった。


視線をトラックに戻すと、最後にゴールした選手が倒れ込むところだった。待機していた係員が手際よく彼を担架に載せ、トラックの外に運び出す。両方の義足の接合部からは赤黒い血が滲んでいるのが見えた。

「あれは?」

「大方、体が義肢についていけなかったんだろうね。まぁ、よくあることだよ」

搬送される選手を一瞥したケミストは事もなさげにそう言った。

「彼はどうなる?」

「さぁね。運が良ければ国に帰れるんじゃないかな?」

勝者がいれば敗者もいる。弱肉強食は世の理なのだ。

「全ては君の決断次第だ」

ケミストは男に右手を差し出した。


そうして二週間に一度、ケミストの研究室を訪れる生活が始まった。深夜に研究室を訪れては、調整された薬の効能を確かめる。同時に、ケミストは男に練習を再開するように言った。

男に在りし日の日常が戻ってきた。唯一の違いは、練習中は必ずイヤホンでラジオを聴くようになった事だ。そうしないと街ゆく人が、トラックを走る他の選手が、お前は競技者精神から逸脱した負け犬だとなじる声が聞こえる気がしたのだ。

いつの日かに聞いた、サバンナに位置する小国で前例のない法律が施行されたというニュースが妙に耳に残っていた。


自主トレを始めてから半年ほど経ったある日、男はトラックで不意に肩を叩かれた。振り返ると、嘗ての後輩がそこに立っていた。

男の在籍時にはチームのナンバーツーに甘んじていた彼だが、ここ一年でみるみる頭角を表したようだ。OBである父親は国内有数の企業の役員を務めており、大学への寄付も多いと聞く。完全無欠のサラブレッドは、今や「金メダルに最も近い選手」としてメディアからの注目度も高い。

「よかった。完全に陸上から離れてしまったのかと思っていたから」

二人は軽く抱擁を交わす。

「練習、付き合っても良い?」

「もう俺じゃ力不足だよ」

「久しぶりに一緒に走りたいんだ」

押し問答の末、男は後輩の提案を受け入れる事にした。何本か一緒に走ったが、やはり今の男ではサラブレッドには遠く及ばない。しかし後輩はその結果に納得がいかないようで、男のフォームが見たいと言い出した。

「やっぱり。変な癖ついてる」

サラブレッドのアドバイスの下、男はブランクで歪になったフォームを次々と矯正していく。練習最後の一本では、男はサラブレッドに肉薄するまでに至った。


練習後、二人は近くの公園でベンチに並んで座っていた。目に映るのは仲睦まじいおしどり夫婦に、恋人の前で猫を被る少女。しばらく無言で往来を眺めていたが、やがてサラブレッドがゆっくりと口を開いた。

「僕は今でも濡れ衣だって思ってる。父さんに掛け合ったって良い。それか、謹慎が短くなるよう伝手を使って……」

男は後輩の顔を直視できずに俯いた。

「……ありがとう。でも、もういいんだ」

「そんなの、やってみないと分からないじゃないか!」

サラブレッドが勢いよく立ち上がった。

「俺を嵌めた奴が連盟側にいる。変な真似をすればお前だって俺の二の舞になりかねない。俺は、それが怖いんだ」

男は手を引いて後輩を再び座らせた。

「でも……」

「お前はお前の夢を叶える事に集中しろ。久しぶりに一緒に走れて楽しかったよ。じゃあな。これからも応援してる」

そう言って軽く後輩の背中を叩き、男は公園を後にした。


車から降りると、ケミストは「じゃあ、健闘を祈ってるねぇ」と言って一年前と同じように悠々と警備員の横を通り抜けた。

当日の手続きを全て完了させ、招集所で精神統一を図っていたが、男はふと思い直してケミストに最後の助言を請う事にした。追加で飲めば効果は増すと聞いたがその程度を聞いておきたい。薬のお陰で、ケミストの居場所は苦もなく探し出せた。

関係者しか入れない部屋で、ケミストが身なりの良い男性と話している。男はドアの隙間から様子を窺う事にした。

「……で、今回は上手くいくんだろうな?」

「ご安心ください。調整は完璧です」

男は、相手の顔には見覚えがあった。

「以前にも同じことを聞いた覚えがあるが?」

「あいたたた……」

バツが悪そうに肩をすくめるケミストに男性が畳み掛ける。

「ステルス・ドーピングと銘打ったは良いものの、検査では紛れもない陽性。おかげでこちらは戦力を一人失う羽目になったんだぞ」

「ですが、御令息にとっても彼は目の上の瘤だったはず。それに、私としても有用なモルモットを手にいれるキッカケになったのです。互いに利があったのですから、結果オーライでしょう」

「ううむ……」

負けじと言い返すケミストに、今度はサラブレッドの父親が苦い顔をする番になった。

「……ところで、その御令息はどちらに?」

長い沈黙の後に、ケミストが相手の機嫌を窺うように聞いた。

「特等席で、負け犬が最速を証明する瞬間を心待ちにしているよ」

「では、尚更彼には頑張ってもらわなければいけませんね」

躊躇う理由はなくなった。猛獣は、与えられた錠剤を全て噛み砕いた。


青ざめた係員に促され、選手たちがトラックに足を踏み入れる。すると、静かだった会場に僅かにどよめきが走った。人間離れした姿の選手に混じり、本物の獅子と豹が何頭もスタートラインに並んでいるのだ。

サバンナの小国にて施行された法律は、「動物にも人権を付与する」というものだった。両脚のない議員が提出したその法案は、動物愛護や多様性の重視といった時代の潮流に乗り、あっという間に採択されたらしい。猛獣たちは興奮状態にある選手を同胞と認めているのか、暴れ出しそうな様子はなかった。

スタート前の準備は順調に進み、後は係員の合図を待つだけだったが、不意に放送席が騒がしくなった。

「ちょっと、何するんですか!?」

かと思えばすぐに静寂が訪れ、程なくしてアナウンスが再開された。

「皆さん」

訛りの抜けきっていない男性の声だ。

「今、この競技場は我々によって占拠されています。出口は封鎖され、警備員も全員こちらの指揮下にあります。それでは、我が同胞による狩りの時間をお楽しみください」


観客席が一転して喧騒に包まれる。脱出を試みた何名かは既に捕えられ、見せしめのように選手の眼前に投げ落とされた。政界に居座る古狸や化け狐に、それらに媚びる豚、そして蝙蝠野郎。統制の取れない被捕食者の群れが自ら入った檻の中で逃げ惑う。

最速の猛獣は、貴賓席に座る偽りのサラブレッドと目が合った。中指を立て、歓喜の咆哮を上げる。それに呼応するように獅子が吠える。豹が吠える。周りの違法者たちも吠える。

号砲は既に放たれた。俺たちが頂点捕食者だ。

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