シェフ(じゃない)の気まぐれサラダ(じゃない)
ましろ
あなたが落としたのは……
出張先で昼前に入った小料理屋の壁に、地域の古地図が貼られていた。
「兄ちゃん、何か気になるもんでもあったかい?」
食い入るように地図を見ていた男に店の大将が声を掛けた。
「ここがちょっと……」
男が指差したのは、小さな山の中腹にある「妖池」という池だった。
「お、そこかい?」
大将は意味ありげに片方の眉を吊り上げる。
「何かあるんですか?」
男が興味を示すと、大将はカウンターからぐいっと体を乗り出した。
「そこはなぁ……出るんだよ」
周りに客はいなかったが、大将は声を落として言った。
「出るって、幽霊ですか?」
オカルト話は幾つになっても心躍るものだ。
「昔っからそういう話をよく聞く場所でなぁ。霊が出るやら、神隠しに遭うやら。ま、実際にはただの池なんだけどよ」
午後の商談が望外に早く纏まったので、男は例の池に行ってみることにした。他に予定もない事だ。麓に車を停め、手入れの行き届いていない登山道を進む。二十分ほどかけて到着すると、そこは大将の言葉通り何の変哲もない小ぶりな池であった。おどろおどろしさも、神秘的な雰囲気も何もない。清閑な水面を眺めていると、不意に水切りで競い合った幼少の記憶が蘇る。
男が足元に視線を落とすと、水切りにお誂え向きの石がいくつも転がっていた。適当な石を拾い、軽く肩を回す。姿勢を低く保ちながら右腕を振り抜くと、石は水面で三回だけ跳ねた。
男には、昔の自分ならもっと跳ばせただろうという確信があった。男はジャケットを適当な木に引っ掛け、シャツの袖を捲る。
次に気付いた時には辺りが既に暗くなり始めていた。
男は次を最後の一投にしようと決め、入念に石を物色した。そして何度も足元を踏み固め、呼吸を整える。そして腹を決め、投石のモーションに入ろうとしたその瞬間、ポケットの中のモノが大きく振動した。
——彼女からだ。
男は相手の名前を慎重に確認すると、出張終わりの日程と、お土産を買って帰る事、それに短い愛の言葉を添えて手早く送信した。
手に持っていたモノをポケットに入れ、再び精神を集中させる。そうして完璧なフォームで放たれたのは、手に持ったままのスマートフォンだった。
ポケットに入れたのは石の方だったのだ——。
膝から崩れ落ちる男。高性能水切り板は、一回だけ跳ねるとポチャンという小さな音を立てて水中に飲み込まれた。
男が依然として打ちひしがれていると、突如として空が暗くなり、ざわついていた木々もピタリと動きを止めた。同時に水面の一部が激しく波立つと、そこから見目麗しい女性が迫り上がるようにして現れた。
「あなたが落としたのはA社のスマートフォンですか。それとも、G社のスマートフォンですか」
現れた女性は悠然と男に問いかけた。女性の両手にあったのは、どちらも先日発売されたばかりの最新機種だった。
予想だにしない展開に男は戸惑ったが、有名な寓話に倣い第三の選択肢を選ぶ。
「いいえ。僕が落としたのは型落ちの、もっとスペックの低いスマホです」
「あなたは正直者ですね。それでは、こちらは二つとも差し上げましょう」
男が言われるがままにスマートフォンを受け取ると、女性は少し寂しそうに池の中へと消えていった。
翌日、男は商談を早々に切り上げると真っ直ぐにあの池へと向かい、貰ったばかりのG社のスマートフォンを投げ込んだ。前日と同様に辺りが暗くなり、水面が慌ただしく波打ちだす。ゆっくりと浮上してきた女性は、男を見ると驚きの表情を見せた。
「あなたが落としたのは……おや、あなたは昨日もいらっしゃいましたね」
意思疎通が可能であると判明し、男は僅かばかりの安心感を覚えた。
「昨日落としたスマホの中にはとても大切なデータが入っています。返していただけませんか?」
そう言って頭を下げる男に女性は優しく語りかける。
「あなたのスマホはA社の物でしたね?」
「は、はい」
「であれば、A社のサービスを受けるにあたってアカウントを作成している筈です。登録しているメールアドレスと、それに紐づいたパスワードは覚えていますか?」
男は機械に疎かったのだ。二人は額を突き合わせ、一つの画面を覗き込みながらアカウント移行の作業を進めていく。パスワードの入力時には画面から顔を背ける女性を見て、男は妙に俗世に馴染んだ女神だな、と思った。
作業の完了後、女性はまた新たにスマートフォンを二つ並べ、どちらが男の物であるかを尋ねた。
「これって、もし僕が答えずに立ち去ったらどうなりますか?」
超常との遭遇も二度目となれば、幾らか頭を働かせる余裕も出てくるものらしい。
「一定時間が経つと、私は池の中へと引き戻されるのです」
「なるほど。それを聞いて少し安心しました。僕はこれ以上スマホは要りませんから。じゃ」
そう言って立ち去ろうとする男を女性が呼び止める。
「あのぅ……」
女性は上目遣いで続けて言った。
「よろしければ、もう少しだけ話をさせていただけませんか?」
聞けば、自分を呼び出す人自体が少なく、コミュニケーションに飢えていたらしい。よしんば登場できたとしても、二言三言で役目が終わってしまう。
女性は、男の取り留めのない話を目を輝かせて聞いていた。特にここ数年の芸能関係の話には並々ならぬ食いつきを見せ、ある若手俳優が結婚したという話に至っては叫び声を上げる始末だった。
雑談の途中に何度かタイムリミットを迎え、女性は池の中へと帰っていった。その度に男は所持品を池に投げ入れたのだが、その前に見る事になる女性の縋るような眼が男の脳裏に深く焼きついた。
本人曰く呼び出される回数に限りはなく、拒否権もないのだという。また、両手に現れる品の出所は女性自身も把握してはおらず、水面を超えた瞬間に彼女の手元に出現するのだそうだ。
「なんだか制約が多いですね」
池の主などではなく、寧ろ池に使われているような印象を受ける。
「この現象は、私が引き起こしているのではないのです。この池自体が持つ魔力、と言った方がより正確かもしれません。例えば、窓口で応対する方の職位は必ずしも高くはありませんね。それと同じようなものだとお考えください」
その事を伝えると、女性は遠い目をして言った。
二人の時間は飛ぶように過ぎ、男はそろそろ帰らねばならないと女性に告げた。
「ごめんなさい。何度も引き止めるような真似を……」
言葉とは裏腹に、泣きそうな顔をして別れを惜しむ女性。
「また来ても良いですか?」
女性がハッと顔を上げる。
「……良いんですか?」
「はい、勿論。これもきっと何かの縁ですから」
男は、彼女に惹かれ始めていた。
出張後も男は宣言通りに時間を作っては池の女性の元に足繁く通った。
池に沈めた物品には女性が干渉できる事が分かると、男は彼女の為に物を選ぶようになった。ある時は化粧品。ある時はアクセサリー。またある時はブランド物のバッグと、贈り物は次第に高額になっていった。
元のスマートフォンが返って来ない事を当時は不条理に感じていたが、今となっては寧ろ好都合だった。
そして出会いから数ヶ月が経ったある日の事。
「あなたが落としたのは……」
言いかけた女性を男が制止する。
「僕が落としたのは心です。僕は、あなたと恋に落ちてしまったのです」
歯が浮くようなセリフだったが、男は女性の目を確と見据えて言い切った。
「どうしましょう……」
一瞬驚いた表情を見せ、仄かに顔を赤らめる女性。互いに見つめ合ったまま、徒に時間だけが過ぎていった。
「あなたは正直者です。ですが、この場合は何を差し上げればよいのでしょうか」
それは勿論あなたです、僕が欲しいのはあなたなのですと男が言おうとした時、茂みから鬼のような形相の二人の女が飛び出してきた。
どちらも男の恋人だった。以前より男の浮気を疑っていた彼女らは、あの手この手で互いの存在を突き止めたのだ。しかし、二人のスケジュールを照らし合わせても尚不審な点が残る。どうやら浮気相手はもう一人、しかもソイツが今の本命であろうという結論に辿り着くまでにそれほど時間は必要ではなかった。そして全ての決着をつけようと、男のスマートフォンに位置情報アプリを仕込んでいたのだ。二人は我先にと男に掴み掛かろうとする。
「では、正直者のあなたには二人の心を差し上げましょう!」
心は心でも、それは赫怒に満ちた心だ。必死の抵抗も虚しく男は次第に水際へと追い詰められていき、遂には池の中に突き落とされてしまった。
五分が経過し、十分が経過した。いくら待っても男は上がって来ない。二人は顔を見合わせると、逃げるようにして山を降りていった。
当の男はというと、満ち足りた心持ちで沈みゆく体を水流に預けていたのだった。
これで彼女と共に過ごすことが出来る——。
だが、囚われの女性が再び池に沈むことはなかった。
一人残された女性は、恐る恐る池の外へと一歩を踏み出した。己の足が大地に触れるのを確かめると、久方ぶりの感触に打ち震えて喜びの声を上げた。
「自由だー!」
嘗て男が投げ込んだG社のスマートフォンに手早く自分のアカウントでログインすると、真っ先に母親に電話を掛けた。
「あ、お母さん?そう。私。ずって電話できなくてごめん。で、急なんだけど、明日そっちに帰っても良い?……良い?やった。じゃあ、お父さんにもそう伝えといて」
女性は男にもらった品々をバラバラと池の中に落とすと、足取りも軽やかに町の方へと消えていった。
池の周囲が陰り、それまで吹いていた風がピタリと凪ぐ。やがて、押し出されるようにして男の体がニュッと水面に迫り上がった。
「あなたが落としたのは……」
そこまで言ったところで、ようやく男は体の自由を取り戻した。
池の周辺には最早誰もいない。程なくして、男の体が再びゆっくりと池に沈んでゆく。
あなたが僕を落としたのは、こういう意図があったからなのですね——。
先ほどまで懸命に鳴いていた蛙が、静かに妖の池へと消えていった。
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