第16話 繋がった手


翔を、抱きしめている。

細い体。

温かい。

翔の匂いがする。

落ち着く匂い。

でも、今は違う。

もっと、近い。

翔の心臓の音が、聞こえる。

速い。

俺の心臓も、同じように速い。


どうしよう。

どうすればいい。

わからない。

もっと近づきたい。

ただ、離したくない。

この腕を。翔から。

「先輩」

翔の声が、震えている。

「ん」

「苦しい、です」

はっとする。

俺は、慌てて腕を緩めた。

「ごめん」

「いえ」

翔が、顔を上げる。

目が、赤い。

涙の跡。

でも、笑っている。

「嬉しかったです」


その笑顔を見て、胸が温かい。

俺は、翔の頬に触れた。

濡れている。


涙を、拭う。

翔が、目を閉じる。


その顔が、穏やかで。

俺は、翔の手を引いた。


「……図書室、行くか」


「え?」


「いつもの場所」


翔が、目を開ける。

「はい」

笑って、頷いた。


俺たちは、教室を出た。

廊下を歩く。

隣を、翔が歩いている。

近い距離で。

いつもより、近い。

細い渡り廊下を、

一列に重なるようにして歩く。

階段を上る。

二階。

図書室。

扉を開ける。

中は、誰もいなかった。


高木先生も、もう帰ったみたいだ。

静かな図書室。

窓際の席。

俺と翔の、席。


「座ろう」

「はい」

翔が、隣に座った。

俺も、自分の席に座る。

並んで。

いつもの場所。


でも、全部が違って見える。

窓から差し込む光。

机の上の影。

翔の横顔。


全部が、新しい。


「先輩」


「ん」


「本当に、いいんですか」


翔の声が、不安そうだった。


「何が」


「僕で、いいんですか」


翔が、俺を見ている。

その目が、揺れている。


「……翔以外、考えられない」


俺は、そう答えた。

翔の目が、潤む。


「ありがとうございます」


小さく、そう言った。


俺は、翔の手を見た。

机の上に置かれた、手。

細い指。

触れたい。

でも、どうすればいい。わからない。

俺は、

そっと手を伸ばした。

翔の手に、触れる。翔が、びくっとする。

でも、逃げない。

俺は、翔の手を取った。

柔らかい。

温かい。

翔の手。

「……いい、か」

「はい」

翔が、笑った。

俺も、少し笑った。

手を繋いでいる。

翔と。

こんなに簡単なことなのに。

今まで、できなかった。

でも、今は。

繋がっている。

翔の手が、少し震えている。


「緊張してる?」


「……はい」


翔が、正直に答えた。


「僕、こういうの、初めてで」


「俺も」


そう言うと、翔が笑った。


「じゃあ、お互い様ですね」


「ああ」


俺たちは、手を繋いだまま、窓の外を見た。

空が、オレンジから紫に変わっていく。


夕暮れ。

世界が、色を変えていく。

でも、ここは変わらない。

この場所は。

窓際の席。

俺と翔の、場所。


「先輩」


「ん」


「また、ここに来ていいですか」


翔が、聞いてくる。


「当たり前だろ」


「でも、先輩、受験が」


「ああ」

俺は、頷いた。


「受験は、ある。忙しくなる」


翔の手が、少し力を失う。


「でも」


俺は、翔の手を握り直した。


「翔がいないと、無理だ」


翔が、目を見開く。


「翔がいる時間が、俺の支えだから」


翔の目が、潤む。


「だから、来てくれ。毎日じゃなくても、いい」


「……はい」


翔が、頷いた。


「来ます。毎日、来ます」


「無理しなくていい」


「無理じゃないです」


翔の声が、強い。


「僕も、先輩に会いたいから」


その言葉が、胸に響く。

俺は、翔の手を握りしめた。

翔も、握り返してくる。

繋がっている。

確かに。


「翔」


「はい」


「進級したら、また変わる」


「……はい」


「俺、三年生になる。翔は二年生」


翔は、黙って聞いている。


「会える時間、減るかもしれない」


「はい」


「でも」


俺は、翔を見た。


「それでも、いいか」


翔が、笑った。

涙が、また一粒、落ちた。

でも、笑っている。


「いいです」


小さく、でもはっきりと。


「蒼汰先輩がいるなら、それでいいです」


その言葉を聞いて。

俺は、もう一度、翔を抱きしめたくなった。

でも、

今は手を繋いでいる。

それで、十分だった。


窓の外で、風が吹いている。

木の枝が、揺れる。

小さな芽が、震えている。

春が、来る。

変わる季節。

でも、怖くない。

翔が、隣にいるから。

翔と、繋がっているから。


「蒼汰先輩」


「ん」


「明日も、来ます」


「ああ」


「約束ですよ」


また、その言葉。

でも、今は違う。


約束。


それは、不安じゃない。

信頼だ。


「約束だ」


俺は、そう答えた。

翔が、嬉しそうに笑った。


図書室の時計が、秒針を刻んでいる。

静かな音。

心地いい。

時間が、流れている。春に向かって。

新しい季節に向かって。


もう怖くない。翔が、いるから。

俺たちは、しばらく手を繋いだまま、座っていた。

何も話さない。

ただ、そこにいる。

それだけで、幸せだった。

窓の外で、最後の光が消えていく。


夜が、来る。でも、図書室の中は、温かい。

翔の手が、温かい。


「そろそろ、帰るか」


「……はい」


翔が、少し残念そうに言った。


俺も、同じ気持ちだった。

まだ、ここにいたい。

翔と、一緒に。

でも、時間は流れる。

俺たちは、立ち上がった。

手を、離す。

その瞬間、寂しさが込み上げる。

でも、すぐに、翔が、また手を伸ばしてきた。


「……繋いでいても、いいですか」


「ああ」


俺は、翔の手を取った。

繋いだまま、図書室を出る。

廊下を歩く。

手を繋いだまま、階段を下りる。

昇降口に向かう。

誰かに見られるかもしれない。

でも、いい。

もう、隠す必要はない。


翔が、好きだ。

それを、認めた。

認めてしまった。


昇降口で、俺たちは立ち止まった。


「じゃあ、また明日」


「はい」


翔の目が、輝いた。


「また、図書室で」


「ああ」


俺は、翔の手を、もう一度握った。


それから、離す。


翔が、小さく手を振って、外に出ていった。

小さな背中。

遠ざかっていく。


でも、今日は違う。

寂しくない。

また、明日会える。

また、手を繋げる。


俺は、空を見上げた。

星が、一つ、また一つと見えてくる。

春の、夜空。

冷たい風が、吹く。

でも、胸の奥は、温かい。

翔の温度が、まだ残っている。

手のひらに。

俺は、自分の手を見た。

さっきまで、翔の手を握っていた手。

まだ、温かい気がした。

明日も、この手で

翔の手を、握ろう。

そう思った。


春が、来る。

新しい季節が。

何も怖くない。

翔が、いるから。

俺たちは、繋がっているから。



(第十六話 了)

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