第13話 伝えた言葉
三月に入って、空気が変わった。
廊下を歩く三年生の顔が、
大人びてみえて、どこか遠い。
卒業式が、近づいている。
教室で、誰かが言った。
「来年は俺たちの番だな」
その言葉が、胸に刺さる。
来年。
俺は、三年生になる。
受験生になる。
そして、卒業する。
この学校を、出る。
翔を、残して。
放課後。
図書室への道を歩きながら、俺は決めた。
今日、伝えよう。
翔に。
もう、毎日は来れない、と。
受験があるから。
勉強しなければならないから。
それは、嘘じゃない。
でも、本当でもない…。
翔と、もっと深く関わることが、
本当は怖い。
自分の気持ち、
俺のなかの、得体のしれない何かが、
抑えていられなくなるような気がして。
分からないから、怖い。
それが、翔にとって
良いわけがない、ような、気がして。
でも、そんなこと言えない。
だから、受験を理由にする。
それなら、翔も納得する。
それなら、俺も楽だ。
図書室の扉を開ける。
翔が、もういた。
窓際の席。俺の隣。
光が、翔の髪に落ちている。
「先輩」
翔が、顔を上げた。
柔らかく輝く、いつもの笑顔。
でも、それを見ると、胸が痛い。
「ああ」
俺は、隣に座った。
翔の匂い。
もう、知っている匂い。
でも、今日で最後かもしれない。
この距離は。
この時間は。
「蒼汰先輩」
「ん」
「今日、何か用事ありますか」
「……いや」
「じゃあ、勉強見てもらえますか」
翔が、ノートを開く。
その手が、震えている。
気のせいかもしれない。
でも、俺には見えた。
「翔」
「はい」
俺は、翔を見た。
翔も、俺を見ている。
その目が、不安そうだった。
まるで、何かを感じているみたいに。
「……話が、ある」
その言葉を言った瞬間。翔の顔が、こわばった。
「話、ですか」
「ああ」
俺は、視線を逸らした。
窓の外を見る。
木の枝に、小さな芽が見える。
春が、来ている。
「俺、来年度、三年生になるだろ」
「……はい」
「受験生になる」
翔は、何も言わなかった。ただ、俺を見ている。
「だから、その」
言葉が、出ない。
喉が、渇いて、声がかすれる。
「毎日、ここには来れなくなる」
その言葉が、空気に落ちた。
重く。
翔が、小さく息を吸う音が聞こえた。
「……そうですか」
翔の声が、小さい。
「前みたいに、頻繁に勉強も見てやれない」
「はい」
「だから、」
続きが、言えない。
だから、何。
だから、もう会えない、と。
だから、距離を置こう、と。
そう言うべきなのか。
でも。
翔は、俺を見ている。
その目が、潤んでいる。
ただ、
じっと、
俺を見ている。
「……わかりました」
翔が、そう言った。
「先輩、受験、頑張ってください」
その声が、震えている。
でも、笑っている。笑おうと、している。
「俺、邪魔しちゃだめですよね」
「邪魔じゃない」
俺は、そう言った。
「邪魔じゃないけど」
続きが、出ない。
翔は、頷いた。
「大丈夫です。わかってます」
わかってる。
その言葉が、痛い。
翔は、わかっている。
俺が、距離を置こうとしていることを。
俺が、逃げようとしていることを。
全部。
でも、何も言わない。
ただ、受け入れる。
それが、翔だ。
「じゃあ、僕」
翔が、立ち上がった。
「今日は、帰ります」
「翔」
「大丈夫です」
翔は、微笑んだ。
でも、その表情が、すぐに歪んだ。
壊れそうだった。
透き通るように薄く透明なガラスに、ピシッとヒビが入ったみたいに。
「先輩、受験、応援してます」
そう言って、翔はカバンを持った。
ブレザーを羽織る。
その手が、震えている。
俺は、何も言えなかった。
ただ、見ている。
翔が、図書室を出ていく。
小さな背中。遠ざかっていく。
扉が、閉まった。音が、響く。
図書室が、静かになる。
俺だけが、残された。
窓際の席に。
一人で。
隣の席が、空いている。
翔がいた席。
まだ、温かい気がした。
俺は、その席を見つめた。
触れたら、俺の何かが壊れる気がした。
窓の外で、風が吹いている。
木の枝が、揺れる。
小さな芽が、震えている。
春。
始まりの季節。
でも、俺にとっては。
終わりの季節。
俺は、何をしたのだろう。
翔を、傷つけた。
翔を、遠ざけた。
それが、正しいと思った。
受験があるから。
忙しくなるから。
でも、それは嘘だ。
怖かっただけ。
翔と、もっと深く関わることが。
翔を、失うことが。
だから、先に距離を置いた。
先に、終わらせた。
そうすれば、楽だ。
そのほうが…。
でも、
胸が、痛い。
引き裂かれるみたいに、熱い痛み。
翔の顔が、浮かぶ。
笑おうとしていた口元。
ひび割れたような表情。
震えていた声。
潤んでいた目。
全部。
全部が、俺のせいだ。
俺は、顔を伏せた。
机に、額をつける。
冷たい。
でも、頭の中は、熱い。
翔のことばかり。翔の言葉ばかり。
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。
翔は、大丈夫じゃない。
俺も、大丈夫じゃない。
でも、もう遅い。
言ってしまった。
伝えてしまった。
距離を置く、と。
図書室の時計が、秒針を刻んでいる。
一秒、また一秒。
時間が、流れていく。
翔がいない時間が。
始まっていく。
俺は、目を閉じた。
暗闇の中で。
翔の笑顔が、浮かぶ。
でも、それは遠い。
もう、触れられない。
自分で、遠ざけた。
自分で、壊した。
この時間を。
この場所を。
春が、来る。
新しい季節が。
でも、俺には、
もう、春は来ない。
翔との時間が、
終わってしまった。
翔との、春を、
無くしてしまった。
(第十三話 了)
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