第12話 戻れない場所
二月が終わろうとしている。
教室で、誰かが言った。
「来年、受験だよな」
その言葉が、空気に溶ける。
窓の外で、風が枯れ葉を運んでいく。
冬の終わりの風。
俺は、机の上のノートを見つめていた。
文字が、滲んで見える。
三年生。
受験生。
その言葉が、胸の奥で、重く沈んでいく。
放課後。
図書室への廊下を歩く。
足音が、響く。
いつもの道。でも、今日は重い。
扉を開ける。
翔が、もういた。
窓際の席。俺の隣。
光が、翔の肩に落ちている。
オレンジ色の、柔らかい光。
「先輩」
翔が、顔を上げた。
ほっとしたように微笑みかける。
でも、俺は何も返せなかった。ただ、頷いて、隣に座る。
翔の匂い。
もう、知っている匂い。
「先輩、この問題」
翔が、ノートを見せる。
細い指先。
ページの端を、軽く押さえている。
俺は、それを見た。
でも、文字が頭に入ってこない。
翔の肩が、近い。
呼吸の音が、聞こえる。
穏やかな、波みたいに。
「……ああ、これは」
俺は、ペンを取った。
翔のノートに、数式を書く。
ペン先が、紙を滑る音。
翔は、じっと見ている。
俺の手を。
書かれていく文字を。
その視線が、肌に触れるみたいだった。
「なるほど」
翔が、小さく言った。
「ありがとうございます」
翔が、笑う。
俺は、窓の外を見た。
空が、少しずつ明るくなってきている。
日が、長くなってきた。
冬が、終わろうとしている。
木の枝に、小さな芽が見える。
ああ…
春が、来る。
始まりの季節。
でも、俺にとっては、
終わりの季節。
窓ガラスに、自分の顔が映っている。
ぼんやりと。
ふと、誰だろう、と思う。
この顔をした人間は。
翔の隣にいる、この人間は。
以前の俺は、こんなふうじゃなかった。
一人で、この席に座っていた。
誰も、隣にいない。
でも、今は違う。
翔が、隣にいる。
毎日。
当たり前みたいに。
いつから、こうなったのだろう。
いつから、翔がいない時間を想像できなくなったのだろう。
図書室の時計が、秒針を刻んでいる。
一秒、また一秒。
時間が、流れていく。
止められない。
春に向かって。
終わりに向かって。
誰かが、本を閉じる音。
椅子を引く音。
世界は、動いている。
変わっていく。
でも、俺は。
翔の隣で、動けない。
いや、動きたくない。
このまま、時間が止まればいい。
そう思う。
でも、時計は動く。
秒針は、進む。
容赦なく。
「蒼汰先輩…?」
翔の声。
俺は、翔を見た。
翔が、少し首を傾げている。
「ぼーっとしてますね」
「……ああ」
「何か、考え事ですか」
俺は、答えない。
ただ、また窓の外を見る。
木の枝が、風に揺れている。
小さな芽が、震えている。
まだ、寒い。でも、春は来る。
「悩んでるんですか」
翔の声が、優しい。
水みたいに…、優しい。
「……少し」
「何です?」
翔が、俺を見ている。
心配そうに。
その目が、温かくて。
「いや…別に、大したことじゃない」
嘘だ。
大したことだ。
全部が、大したことだ。
でも、言えない。言葉にしたら、壊れる気がする。
この時間が。
この場所が。
「そうですか」
翔は、それ以上聞かなかった。
ただ、また自分のノートに目を戻す。
ペンを取る。
何かを書き始める。
その横顔を、俺は見ていた。
真剣な目。
少し開いた唇。
時々、眉間に皺を寄せる。
全部。
全部が、記憶に焼き付いていく。
忘れないように。
失わないように。
でも、いつか忘れるのだろう。
いつか失うのだろう。
それを、俺は知っている。
窓の外で、鳥が鳴いた。
春の、予感。
翔が、ペンを置いた。
「先輩」
「ん」
「春休み、また会えますか」
その言葉が、空気を震わせる。
俺は、頷いた。
「……ああ」
「約束ですよ」
翔が、笑った。
その笑顔が、輝いた。
でも、見つめていられない。
眩しすぎて。
俺は、
視線を落とした。
机の上に、光が落ちている。
翔の手の上に。
俺の手の上に。
並んでる。
近い。
触れてみたい、この手に。
でも、できない。
触れたら、壊れる。何かが。
光が、揺れる。影が、動く。
時間が、流れている。
止まらない。
春が、来る。
進級が、来る。別れが、来る。
それを、止められない。
―――
その日、図書室を出る時。
翔が、振り返った。
「先輩、最近、元気ないですね」
俺は、何も答えなかった。
ただ、翔を見ている。
翔の目が、心配そうだった。
でも、俺は何も言えない。
言葉が、喉の奥で固まっている。
「何か、あったんですか」
俺は、首を振った。
翔は、それ以上聞かなかった。
ただ、小さく笑って。
「また、明日」
そう言って、廊下を歩いていった。
小さな背中。
遠ざかっていく。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
廊下の窓から、夕陽が差し込んでいる。
オレンジ色の光。
翔の影が、伸びている。
長い影。
それが、角を曲がって、消えた。
俺は、図書室を振り返った。
扉が、開いたまま。
中が、見える。
窓際の席。
二つ、並んだ椅子。
光が、そこに落ちている。
誰もいない席。
でも、温度が残っている気がした。
翔の温度が。
俺は、そこに戻りたかった。
今すぐ。
座りたかった。翔の隣に。
でも、足が動かない。
ただ、見ている。
空っぽの席を。
もう、戻れない。
向かい合っていた、あの頃には。
距離があった、あの頃には。
翔を知らなかった、あの頃には。
でも、前にも進めない。
ここで、止まっている。
春の入り口で。
終わりの入り口で。
廊下の窓から、風が入ってくる。
冷たい。
でも、どこか温かい。春の風。
もうすぐ、来る。新しい季節が。
でも、それは、終わりでもある。
この時間と、この場所の。
俺は、図書室の扉を閉めた。
静かに。
音が、廊下に響く。
それが、
終わりを告げる音のように聞こえた。
(第十二話 了)
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