第11話 変わった距離
翔の様子が、少しおかしい。
昨日から、いや、もっと前からかもしれない。
何かが、変わったような気がした、
放課後、図書室。
いつものように翔が来た。
「先輩」
「ああ」
でも、今日は違った。
翔が、向かいの席じゃなく。
俺の隣に、座った。
「……翔?」
「はい」
翔は、笑顔を見せた。
でも、いつもと違う笑顔。
何かを決めたみたいな。
「どうして、こっち」
「だって、向かいだと遠いので」
遠い。
確かに、向かいの席は少し距離がある。
でも、今まではそれで良かった。
いや、それが心地よかった。
でも、翔は隣にいる。
すぐ隣に。
肩が触れそうなくらい、近くに。
「……そうか」
それしか、言えなかった。
翔の匂いがする。
石鹸みたいな、清潔な匂い。
それが、近い。
心臓が、跳ねる。
翔は、カバンからノートを取り出した。
机の上に広げる。
俺の教科書と、翔のノートが、並んでいる。
近い。
全部が、近い。
「先輩」
「ん」
「この問題、わからないんです」
翔が、ノートを指差す。
数学の問題。
俺は、それを見た。
でも、翔の手が近くて。
集中できない。
「ここ、どうやって解くんですか」
翔が、少し身を乗り出す。
肩が、触れた。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
心臓が、また跳ねる。
「……ああ、これは」
俺は、説明しようとした。
でも、声が震える。
翔が、近すぎる。
翔の髪が、俺の肩に触れそうなくらい。
「先輩?」
「……こうやって」
俺は、ペンを取った。
翔のノートに、解き方を書く。
でも、手が震えている。
翔が、じっと見ている。
俺の手を。
俺の書く文字を。
その視線が、熱い。
「なるほど」
翔が、小さく言った。
「先輩、すごいですね」
「別に」
「いえ、すごいです」
翔が、笑った。
その笑顔が、近すぎて、
息が、止まる。
翔は、いつもと違う。
何かが、変わった。
積極的。
まるで、何かを求めているみたいに。
「先輩…」
「ん」
「ありがとうございます」
翔の声が、優しい。
でも、その奥に何かがある。
切実さ。
真剣さ。
でも、嫌じゃない。
むしろ、嬉しい。
翔が、こんなに近くにいることが。
翔が、俺を見ていることが。
窓の外で、風が吹いている。
光が、机の上で揺れる。
翔の手の上に、光が落ちる。
その手を、見つめる。
触れたら、どうなるのだろう。
翔の手に。
「先輩」
翔が、また呼ぶ。
「ん」
「最近、考えてたんです」
「何を」
「先輩のこと」
心臓が、止まりそうになる。
「……俺のこと?」
「はい」
翔は、
俺を見ている。
真っ直ぐ。
「ずっと、考えてました」
翔の声が、
震えている。
「先輩といると、幸せで」
胸が、
熱くなる。
「先輩の声を聞くと、安心して」
翔の言葉が、
胸に沈んでいく。
「先輩のことを考えると、胸が苦しくて」
俺は、何も言えなかった。
ただ、翔を見ていた。
翔が、何を言おうとしているのか。
わかる気がする。
でも、怖い。
それを聞くことが。
「これって」
翔が、小さく言った。
「これって、何なんでしょうか」
言葉が、出ない。
翔は、俺を見ている。
答えを、求めているみたいに。
でも、俺にもわからない。
この気持ちが、何なのか。
翔といると、幸せだ。
翔の声を聞くと、安心する。
翔のことを考えると、胸が苦しい。
それは、俺も同じだ。
でも、それが何を意味するのか。
わからない。
いや、わかりたくない。
それを認めたら、何かが変わる。
この関係が、壊れる。
それが、怖い。
「先輩」
翔の声が、近い。
「僕」
翔が、何か言おうとしている。
でも、その時。
図書室の扉が、開いた。
他の生徒が、入ってくる。
翔が、慌てて距離を取った。
元の席に、戻ろうとする。
「……翔」
「はい」
「そこに、いていいよ」
俺は、そう言った。
翔が、目を見開く。
「……いいんですか」
「うん」
翔は、少し笑った。
それから、また隣に座った。
でも、さっきより少しだけ、距離がある。
他の生徒がいるから。
でも、それでいい。
翔が、隣にいる。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。
空が、オレンジから紫に変わっていく。
翔が、小さく言った。
「先輩」
「ん」
「また、明日」
「ああ」
「隣に、座ってもいいですか」
翔の声が、小さい。
でも、真剣で。
「……好きにしろよ」
俺は、そう答えた。
翔の目が、輝いた。
「じゃあ、明日も隣に座ります」
「うん」
明日も、翔が、隣にいる。
それが、たまらなく嬉しくて。
ただ、
この距離に、
慣れてしまったら、
もう、向かいの席には戻れない気がした。
それで、いいのか。
それで…
いい、と思えた。
―――
その日、図書室を出る時、
翔が、小さく言った。
「先輩、今日、ありがとうございました」
「別に、何も」
「いえ、ありがとうございました」
翔は、そう言って頭を下げた。
それから、また、チラリとこちらを見てから、
廊下を歩いていく。
俺は、その背中を見送った。
さっきから
翔の言葉が、頭の中で繰り返される。
「先輩のこと、ずっと考えてました」
「これって、何なんでしょうか」
俺も、わからない。
自分の
この気持ちが、何なのか。
でも、一つだけわかる。
翔が、隣にいた。
その時間が、幸せだった。
翔の温度が、まだ残っているみたいに、
隣の席が、温かい。
俺は、その席を見つめた。
明日も、翔はここに座る。
また、隣に。
嬉しさが、込み上げる。
この距離が、何を意味するのか。
わからない。
でも、もう、
変わってしまった。
この距離を、戻せない。
窓の外で、夜が来る。
冷たい風が、吹く。
翔のことを、考えている。
ずっと。
(第十一話 了)
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