第10話 名前のない感情


一月も半ばを過ぎた。

図書室は、相変わらず寒い。

でも、僕は毎日来る。

蒼汰先輩も、毎日来る。

いつもの席で。

いつもの時間。

今日も、先輩は向かいに座っている。

教科書を見ている。

僕は、ノートに何かを書こうとしている。

でも、手が動かない。

ペンを持ったまま、ただ、先輩を見ている。

先輩の髪が、少し目にかかっている。

それを、先輩が手で掻き上げた。

その瞬間。

心臓が、跳ねる。

大きく。


何。

今の、何。


先輩は、また教科書に目を戻した。

何も気づいていない。

僕の心臓が、こんなに跳ねていることを。

僕の手が、震えていることを。

「……どうした」

先輩が、顔を上げた。

僕を見ている。

「え」

声が、出ない。

「いえ、何でも」

そう答えて、また視線を落とす。

でも、胸の奥が、ざわざわする。

波が立っている。

さっきより、大きく。

どうして。

どうして、先輩が髪を触っただけで。

こんなに、胸が苦しいのだろう。


静かな、図書室。

でも、僕の中は、静かじゃない。

波が立っている。

止まらない。

しばらくして、先輩がペンを取った。

ペン回しをする。

指の間を、ペンが滑る。

流れるような動き。

綺麗で。

見とれてしまう。

気づけば、僕は先輩を見ていた。

じっと。

ペンを回す指先を。

その手を。

まるで、それしか見えないみたいに。

「……何だよ」

先輩の声。

はっとする。

「あ、すみません」

慌てて、視線を逸らす。

顔が、熱い。

耳まで、熱い。

どうしよう。

見られた。

先輩に、見られた。

じっと見ていたのが、ばれた。

「体調悪いのか」

「いえ、大丈夫です」

「顔、赤いぞ」

赤い。

そうだ。

きっと、真っ赤だ。


「……風邪じゃないです」


僕は、そう答えた。

でも、本当は。

うん、いや、風邪じゃない。

これは、違う。

何か、違う。

僕は、窓の外を見た。


蒼汰先輩の顔が好きでいつも見てた。

でも今は、

先輩の顔を、見れない。


見たら、また心臓が跳ねる。

また、顔が赤くなる。

どうして。

どうして、こんなに、

先輩の仕草が、目に焼き付くのだろう。

先輩の声が、胸に響くのだろう。

わからない。

この気持ちが、何なのか。

窓の外で、誰かが笑っている。

部活動の声。

世界は、動いている。

でも、僕の中で。

何かが、止まって、い、る。

止まっているのか。

それとも、動き始めているのか。

わからない。

僕は、小さく息を吸った。

それから、先輩を見た。


「先輩」


「ん」


先輩が、僕を見る。

その目が優しくて、胸が、また跳ねる。


「あの」


何か言いたい。

でも、何を言えばいいのか。

わからない。

この胸の高鳴りを。

この気持ちを。

どう言葉にすればいいのか。


「何か、あったのか、どうした?」


先輩が、聞いてくる。


「……いえ」


僕は、首を振った。


「やっぱり、何でもないです」


嘘だ。

何でもなくない。

でも、言えない。

言葉にできない。

僕は、また視線を落とした。

ペンを、握りしめる。

力が入りすぎている。

でも、止められない。

この気持ちを。

堪えきれない。

図書室の時計、秒針を刻んでいる音、

静かな音。

でも、それが今日は、やけに大きく聞こえた。


―――


その日、図書室を出る時。

僕は、小さく言った。

「先輩、また明日」

「うん」

「……約束ですよ」

確かめたい。

先輩が、明日も来るかどうか。

先輩が、ここにいてくれるかどうか。

「ああ、約束だ」

先輩が、そう答えてくれた。

僕は、少し笑った。

でも、胸の奥が、苦しい。

この気持ちが、何なのか。

まだ、わからない。

でも、確かに。

何かが、変わっている。

僕の中で。

先輩を見る度に。

先輩の声を聞く度に。

何かが、大きくなっている。

それが、怖くて。

嬉しくて。

切ないくて。

苦しい…。

僕は、先輩に背を向けた。

廊下を歩いていく。

心臓が、まだ跳ねている。

止まらない。


―――


廊下ですれ違ったクラスメートの田中が、

声をかけてきた。

「あれ、神林、図書室行ってたんだ」

「……まあ」

僕は、曖昧に答えた。

「勉強?」

「そんな感じ」

田中は、驚いたように笑った。

「真面目だね。俺なんて、全然行かないわ」

「そう」

「あ、そういえば」

田中が、急に声を潜めて一歩近寄った。

「神林って、彼女とか、好きな人っているの?」

心臓が、跳ねる。

「……なんで」

「いや、なんとなく。てかさ、三学期になってからさ、転校してきた時より、なんか、全然、雰囲気変わったなって」

雰囲気。

そんなに、変わった、のか。

僕が。

「別に、いないけど」

そう答えようとした。

でも、言葉が出ない。

頭の中に、蒼汰先輩の顔が浮かんだ。

髪を掻き上げる仕草。

ペンを回す指先。

窓際の席で、僕を見る目。

あの、優しい目。

心臓が、また跳ねる。

胸の奥が、熱い。


「……神林?」

田中が、不思議そうに僕を見ている。

「あ、ごめん」

「どうした?顔、赤いぞ」

赤い。

そうだ。

さっきも、図書室で、先輩に、言われた。

顔が赤い、って。

それは、どうして。

どうして、僕は、

先輩を見ると、胸が苦しくなるのだろう。

先輩の仕草に、目が離せなくなるのだろう。

先輩のことを、考えると、幸せになるのだろう。

これは、何。

この気持ちは。

「神林、もしかして」

田中が、ニヤニヤしながら言った。

「いるんだ、好きな人」

好きな人。

その言葉が、胸に刺さる。

好き。

僕は、先輩のことが、好き、なのか。

頭の中が、真っ白になる。

うん、好きだよ、…だけど。

蒼汰先輩の顔が、浮かぶ。

笑顔。

困った顔。

優しい目。

全部。

全部が、愛おしい。

…ああ。…そうか。

これは。

これが。



(第十話 了)

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