第6話 繰り返す不安


美月の言葉が、頭から離れない。

「昔のこと、引きずらなくていいからね」

昔のこと。

それは、隼人のことだ。

桐谷隼人。

中学時代の、親友。


俺は、教室の窓から外を見ていた。

空が、灰色だ。

雪が、降りそうな空。

あれから、もう三年が経つ。

隼人とは、もう話していない。

高校も違う。連絡先も、消した。

でも、時々思い出す。


あの日のことを。


隼人が、俺の秘密を他の人に話した日。

いや、正確には違う。

隼人は、悪気なく話しただけだった。

ただの雑談として。

でも、俺にとっては違った。

それは、隼人にしか話していなかったこと。

家庭のこと。

親が離婚したこと。

その理由、

俺が、それをどう思っているか。

隼人は、それを軽く扱った。


笑い話みたいに、他の人に話した。


俺は、傷ついた。

信頼していたから。

隼人になら、何でも話せると思っていたから。

でも、違った。


俺は、隼人に何も言わなかった。

怒り出す感情も無かった。

ただ、距離を置いた。

急に。


隼人は、最初わからなかったみたいだった。

何度か話しかけてきた。

でも、俺は答えなかった。

やがて、隼人も諦めたようだった。


二人の間に、壁ができた。

それ以来、俺は人と深く関わるのをやめた。


表面的な関係だけ。

誰も傷つけない。

誰にも傷つけられない。

それが、楽だった。


美月だけは、違う。

美月は、あの頃から知っている。

だから、俺の壁を理解している。


無理に踏み込んでこない。

でも、見守ってくれている。


そして、今。

美月は、気づいている。

俺が、また誰かと関わり始めていることを。

翔と。

神林翔と。


―――


放課後、図書室に向かう。

廊下を歩きながら、俺は考える。

翔と隼人は、違う。

翔は、俺の秘密を知らない。

俺も、翔のことを全部知っているわけじゃない。

でも、一緒にいる。

毎日、図書室で。

それだけの関係。

でも、違う。

何かが、違う。

翔といると、心が落ち着く。

翔の声を聞くと、胸が温かくなる。

翔が笑うと、俺も笑いたくなる。

それは、隼人といた時とは違う。

もっと、深い。

もっと、切実な。

でも、それが怖い。

また、失うことが。

また、壊れることが。


図書室の扉を開ける。

翔が、もう来ていた。

向かいの席で、窓の外を見ている。

俺が入ってくると、翔が振り向いた。

「先輩」

その声が、胸に響く。

「ああ」

俺は、自分の席に座った。

翔が、柔らかく笑う。

いつもの笑顔。

落ち着く。

でも、今日は、それが眩しすぎた。

俺は、視線を逸らした。


「先輩、どうかしましたか」

「……別に」

「嘘ですよ。顔に出てます」


翔は、そう言って少し笑った。

俺は、何も言えなかった。

顔に出ている、か。

昔は、そんなこと言われなかった。

でも、翔は気づく。

俺の変化に。

俺の気持ちに。

それが、嬉しくて。

怖い気もした。


「先輩」


「ん」


「僕、先輩のこと、もっと知りたいです」


心臓が、大きく跳ねる。

翔の目が、まっすぐだ。


「知りたいって」


「先輩が、何を考えているのか。何が好きで、何が嫌いで。どんな過去があってとか」


翔の声が、優しい。


「でも、無理には聞きません。先輩が話したくなったら、聞かせてください」


俺は、息を呑んだ。

翔は、笑った。

でも、その目が、真剣で。


話したい。

翔になら、話せる気がする。


隼人のこと。

あの時の傷。

今の不安。

全部。


でも、怖い。


話したら、翔はどう思うだろう。

俺を、どう見るだろう。

距離を置くだろうか。

笑わなくなるだろうか。


「……ありがとう」


それしか、言えなかった。

翔は、少し首を傾げた。


「え、何に対してですか」


「そうやって。そうやってさ、待ってくれること」


「待ちますよ。ずっと」


ずっと。

その言葉が、胸に沈む。

翔は、待ってくれる。

俺が、心を開くまで。


でも、いつまで。

いつまで、翔はここにいてくれるのだろう。


春になったら。

進級したら。

クラスが変わったら。

翔は、また転校するのだろうか。

また、居場所を失うのだろうか。


それとも。

俺が、翔の居場所になれるのだろうか。

わからない。

でも、一つだけわかる。


俺は、翔を失いたくない。


翔といる、この時間を。

この静かな図書室を。

失いたくない。


それは、隼人の時とは違う。

もっと、強い。

もっと、切実な、

気持ち。


―――


その日、図書室を出る時。

翔が、小さく言った。

「先輩、明日も来ますよね」

「……ああ」

「約束ですよ」

翔が、笑った。

俺は、頷いた。

約束。

また、その言葉。

翔は、いつも確認する。


俺が、明日も来るかどうか。

俺が、ここにいるかどうか。


それは、翔の過去から来ているのだろう。

前の学校で、誰も見てくれなかった。

誰も、翔のことを覚えていなかった。

だから、不安なのだろう。

俺も、いなくなるんじゃないかと。

でも、違う。


俺は、いなくならない。

ここにいる。

翔の隣に。

それを、伝えたい。

でも、言葉が出ない。


「翔」


「はい」


「……明日も、来るよ」


それしか、言えなかった。

翔は、嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


俺たちは、昇降口で別れた。

翔の背中が、遠ざかっていく。

小さくなっていく。

俺は、その背中を見送った。


別れてから、近づいてくる、この感情。

胸の奥が、苦しい。

翔のことが、頭から離れない。

翔の笑顔。

翔の声。

翔の、全部。

これは、何だろう。

この気持ちは。

俺は、翔のことを。


―――


家までの帰り道、俺は立ち止まった。

空を見上げる。

灰色の空。

雪が、一粒、頬に落ちた。

冷たい。

でも、胸の奥は、熱い。

俺は、翔のことを、大切だと思いはじめている。

でも、それを認めるのが、怖い。

また、失うことが。

また、傷つくことが。

隼人の時みたいに。

でも、違う。

翔は、隼人じゃない。

翔は、俺を見てくれている。

俺の変化に、気づいてくれている。

それでも、怖い。

この気持ちを、伝えるのが。

翔が、どう思うのか。

翔も、同じ気持ちなのか。

それとも、違うのか。

わからない。


雪が、降り始めた。

静かに。

世界が、白く染まっていく。

俺は、家に向かって歩き出した。

そして大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

白く、長いため息。


明日も、翔に会える。

また、図書室で。

それだけで、十分だった。


今は。



(第六話 了)

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