第5話 美月の記憶
早川美月は、榊原蒼汰を中学一年生の時から知っている。
あの頃の蒼汰は、今とは違った。
もっと明るくて。もっと素直で。
笑顔が、多かった。
美月は、教室の窓から外を見ていた。グラウンドで、誰かが走っている。
蒼汰は、今日も図書室だろう。
最近、毎日そうだ。
美月は、知っている。
蒼汰が変わった理由を。
蒼汰が人と距離を置くようになった理由を。
それは、中学二年生の冬のことだった。
―――
あの頃、蒼汰には親友がいた。
名前は、桐谷隼人。
二人は、いつも一緒だった。
同じクラス。同じ部活。同じ帰り道。
まるで、兄弟みたいに。
美月も、二人をよく見ていた。
蒼汰が笑うと、隼人も笑う。
隼人が何か言うと、蒼汰が頷く。
そういう関係。
でも、ある日。
それが、壊れた。
きっかけは、些細なことだった。
美月は、詳しいことを知らない。
ただ、噂で聞いた。
隼人が、蒼汰の秘密を他の人に話してしまった、と。
蒼汰が信頼していたことを、隼人が軽く扱った、と。
誤解だったのかもしれない。
すれ違いだったのかもしれない。
でも、二人は話さなくなった。
急に。
まるで、最初から何もなかったみたいに。
美月は、その瞬間を覚えている。
蒼汰の目が、変わった瞬間を。
あれから、蒼汰は笑わなくなった。
人と深く関わらなくなった。
距離を置くようになった。
美月が話しかけても、蒼汰は優しく答えるが、
それ以上は踏み込ませない、壁。
見えない壁を、
蒼汰は、作ってしまったように感じた。
―――
でも、最近。
蒼汰が、変わった。
少しだけ。
表情が、柔らかくなった。
スマホを見る時間が、減った。
図書室に行く時間が、増えた。
美月は、気になっていた。
何があったのか。
誰がいるのか。
そして、先日。
美月は、見た。
放課後、廊下で。
蒼汰が、一年生の男子生徒と話していた。
いや、話していたというより、
ただ、一緒に歩いていた。
二人とも、何も言わない。
でも、その距離が、近い。
一年生の男子は、小柄で。華奢で。
蒼汰を見上げるように、歩いていた。
美月は、息を呑んだ。
蒼汰の表情。
あれは、昔の蒼汰だ。
中学時代の、隼人といた頃の。
柔らかくて。穏やかで。
まるで、壁が消えているみたいに。
美月は、わかった。
ああ、と思った。
蒼汰は、また誰かを信頼し始めている。
また、心を開き始めている。
それが、怖いのだろう。
でも、止められないのだろう。
美月は、二人の後ろ姿を見送った。
蒼汰と、一年生の男子。
図書室に向かっているのだろう。
二人の間に、何があるのか、
美月は、知らない。
でも、わかることがある。
蒼汰が、変わろうとしている。
また、傷つくかもしれない。
また、壊れるかもしれない。
でも、それでも。
蒼汰は、前に進もうとしている。
美月は、自然と微笑んだ。
良かった、と思った。
蒼汰が、また誰かを大切に思えるようになって。
―――
次の日、美月は蒼汰に声をかけた。
「蒼汰」
「ん」
「無理しないでね」
蒼汰は、少し驚いたような顔をした。
「何が」
「何でも」
美月は、笑った。
「ただ、大事にしてほしいの。自分のことも、相手のことも」
蒼汰は、何も言わなかった。
ただ、じっと美月を見ている。
「昔のこと、引きずらなくていいからね」
その言葉に、蒼汰の目が揺れた。
「美月……」
「もう、あれから何年も経ってるよ。蒼汰は、変わっていいんだよ」
美月は、そう言った。
蒼汰は、視線を逸らした。
「……ありがとう」
小さく、そう言った。
美月は、蒼汰の肩を軽く叩いた。
「頑張ってね」
「何を」
「わかってるくせに」
美月は、笑って教室を出ていった。
蒼汰の表情が、少しだけ困ったみたいに見えた。
でも、その目は、優しかった。
―――
美月は、廊下を歩きながら思う。
蒼汰は、怖いのだろう。
また、誰かと深く関わって、
また、失うことを。
でも、それでも、
蒼汰は、前に進んでいる。
あの一年生の男子と。
名前は、確か神林。
神林翔。
美月は、その名前を覚えていた。
学年は違うけれど、噂で聞いたことがある。
転校生で。おとなしくて。
でも、どこか不思議な子だと。
蒼汰と、どうやって出会ったのだろう。
何を話しているのだろう。
美月は、知らない。
でも、いい。
それは、二人だけのもの。
美月は、ただ、見守るだけ。
蒼汰が、また笑えるようになるまで。
蒼汰が、また誰かを信じられるようになるまで。
美月は、廊下の窓から外を見た。
空が、青い。
冬の、冷たい青。
でも、どこか温かい。
―――
放課後、美月は図書室の前を通った。
中を覗くと、蒼汰がいた。
窓際の席。
そして、向かいに、神林翔がいた。
二人は、何も話していない。
ただ、座っている。
でも、その空気が、穏やかな気がした。
美月は、
ああ、これでいいんだ、と思った。
蒼汰は、ちゃんと前に進んでいる。
ゆっくりでいい。
焦らなくていい。
ただ、進んでいけばいい。
美月は、図書室を後にした。
二人の時間を、邪魔しないように。
廊下を歩きながら、美月は思う。
蒼汰と隼人は、もう戻れない。
あの関係は、壊れてしまった。
でも、蒼汰と翔は、違う。
新しい関係。
新しい時間。
それが、ここから始まる。
美月は、それを信じていた。
空が、少しずつ暗くなっていく。
冬の夕暮れ。
早い。
でも、美月は急がない。
ゆっくりと、家路につく。
蒼汰の笑顔を、思い出しながら。
翔といる時の、蒼汰の優しい顔。
それは、もっと本物。
―――
美月は、スマホを取り出した。
蒼汰にメッセージを送る。
『応援してるよ』
それだけ。
蒼汰から、返信は来なかった。
でも、いい。
美月の気持ちは、届いているはず。
夜が、来る。
冷たい風が、吹く。
でも、美月の心は、温かかった。
美月は、
あの頃の蒼汰と隼人の
二人を見ているのが好きだった。
部活動の二人が出る試合も見に行った。
二人を応援することが
自分の青春だと感じていた。
とくに蒼汰は。
蒼汰のことは、美月にとっては
仕草や表情を見ているだけで、
気持ちが手に取るように分かった。
蒼汰が、幸せになれますように。
傷ついた心が、癒えますように。
そう、願いながら、
美月は、家に帰った。
(第五話 了)
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