第4話 転校生の理由
十二月に入って、図書室は冷えるようになった。
暖房は入っているけれど、窓際の席は寒い。でも、俺はここが好きだった。
翔も、変わらずに来る。
「先輩、寒くないですか」
「平気」
「嘘ですよ。手、冷たそうです」
翔は、そう言って笑った。
俺は、自分の手を見た。確かに、少し赤くなっている。
「お前こそ、寒そうだよ」
「僕は平気です」
翔は、そう言った。
でも、その声が少しだけ震えているのがわかった。
冬が、来ている。
「翔」
「はい」
「お前、いつからここに来るようになったんだっけ」
翔は、少し考える顔をした。
「九月の終わりくらい、ですかね」
「そんなに経つのか」
「もう、三ヶ月です」
三ヶ月。
その間、毎日。翔は、ここに来ていた。
「お前、転校生なんだっけ」
「はい。夏休み明けに、転校してきました」
翔は、淡々と答える。でも、その目が、少しだけ遠い。
「前の学校は、どこだったんだ」
「隣の県です」
「遠いな」
「そうですね」
翔は、窓の外を見た。
窓の外で、風が吹いている。
木の枝が、大きく揺れる。
「どうして、転校したんだ」
その質問を、俺は躊躇った。
でも、聞いてしまった。
翔は、少しだけ黙った。
それから、小さく笑う。
「親の仕事、とかじゃないです」
「じゃあ」
「僕が、転校したかったんです」
翔の声は、静かだった。
「……そうか」
それ以上、聞けなかった。
翔の表情が、いつもと違う。笑っているけれど、その奥に何かがある。
触れてはいけないものが、そこにある気がした。
「前の学校、居心地が悪かったんです」
翔が、ぽつりと言った。
「居心地が悪い?」
「はい。なんていうか……居場所がなくて」
居場所。
その言葉が、胸に刺さる。
「いじめとか、そういうのじゃないんです。ただ、なんとなく。誰も、僕のこと見てくれなくて」
翔は、そう言って笑った。
でも、その笑顔が、痛々しい。
「だから、転校しようって思ったんです。新しい場所なら、変われるかなって」
「変われた、のか」
「わかりません」
翔は、首を振った。
「でも、ここには来れました」
「ここ?」
「図書室です。先輩がいる、ここ」
心臓が、大きく跳ねる。
翔は、俺を見ている。その目が、まっすぐで。
「前の学校では、こういう場所、なかったんです。誰かと一緒にいて、居心地がいいって思える場所」
翔の声が、震えている。
「だから、ここが好きです。先輩といると、安心するんです」
息が、止まる。
翔の言葉が、胸の奥に沈んでいく。
安心。
翔は、そう言った。
俺といると、安心すると。
「……そうか」
それしか、言えなかった。
翔は、また笑った。今度は、少しだけ安心したみたいに。
翔と俺の間だけ時間が止まったように感じた。
「先輩」
「ん」
「前の学校の友達、一人もいないんです」
翔が、小さく言った。
「連絡も、取ってません。誰も、僕のこと覚えてないと思います」
「そんなことない」
「いいえ、そうですよ」
翔は、そう言い切った。
「僕、透明人間みたいだったんです。そこにいるのに、誰も見てくれない、誰からも声をかけられない」
透明人間。
その言葉が、痛い。
「でも、先輩は見てくれました」
翔が、俺を見ている。
「最初に、この図書室に来たとき。先輩が、僕を見てくれたんです」
俺は、何も言えなかった。
ただ、翔を見返すことしかできなくて。
「だから、ここに来るようになりました。毎日、来るようになりました」
翔の声が、優しい。
「先輩がいるから」
また、その言葉。
胸が、苦しい。
翔は、笑っている。
でも、その笑顔の奥に、何かが見える。
孤独。
寂しさ。
居場所を求める、切実さ。
翔は、無鉄砲に見える。
でも、それは強さじゃない。
諦めから来ている。
「どうせ誰も見てくれない」という諦め。
だから、何も恐れない。
だから、簡単に言葉を口にする。
「先輩の顔、好きなんで」
「先輩がいるから」
そういう言葉を、躊躇なく。
それは、無防備なんじゃない。
もう、失うものがないから。
俺は、ようやく理解した。
翔の危うさを。
翔の純粋さを。
それが、どこから来ているのかを。
「翔」
「はい」
「お前、ここにいていいんだ」
翔が、目を見開いた。
「ここに、居場所があるんだ」
俺は、そう言った。
自分でも驚くくらい、強く。
翔の目が、潤んでいる。
「……本当ですか」
「本当だ」
翔が、小さく笑った。
涙が、こぼれそうなのを堪えているみたいに。
「ありがとうございます」
小さく、そう言った。
俺は、何も返せなかった。
ただ、翔を見ている。
窓の外、冬の風。
冷たい。
でも、胸の奥は、温かい。
翔が、ここにいる。
俺の向かいに、座っている。
それだけで、何かが満たされる。
俺も、ここに居場所を見つけていたのかもしれない。
翔といる、この時間に。
―――
その日、翔はいつもより遅くまでいた。
「先輩、まだ帰らないんですか」
「もう少し」
「じゃあ、僕も」
翔は、そう言って座り直した。
外は、もう真っ暗だった。
図書室の照明だけが、俺たちを照らしている。
静かな空間。
翔と俺だけの、世界。
「先輩」
「ん」
「ここにいると、時間が止まってるみたいです」
翔が、小さく笑った。
「そ、落ち着く、でしょ」
「はい…、なんていうか…」
翔は、窓の外を見た。
真っ暗な空。
「ずっと、こうしていたいです」
その言葉が、胸に響く。
俺も、同じことを思っていた。
ずっと、このままでいたい。
翔と、この静かな時間を。
でも、時間は流れる。
冬が来て、やがて春が来る。
その時、俺たちはどうなるのだろう。
わからない。
でも、今は、ここにいる。
翔と、一緒に。
それだけで、十分だった。
(第四話 了)
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