第3話 気づかれる距離


「蒼汰、最近変わったよね」

昼休み、教室で早川美月がそう言った。


俺は、弁当を食べる手を止めた。


「変わった?」


「うん」


美月は、俺の顔をじっと見ている。まるで、何かを探すみたいに。


「何が」


「わかんない。でも、なんか、柔らかくなったっていうか」


柔らかい。

その言葉が、胸に引っかかる。


「気のせいだろ」


「そうかなあ」


美月は、首を傾げた。それから、にこっと笑う。


「まあ、いいけど。悪い変化じゃないし」


それだけ言って、美月は自分の弁当に戻った。

俺は、何も言えなかった。

変わった、か。

自分では、わからない。

でも、もしかしたら、

翔のせいで、何かが変わっているのかもしれない。


―――


放課後、いつものように図書室に向かう。

廊下を歩いていると、後ろから声がした。


「蒼汰、図書室行くの?」


振り返ると、美月がいた。


「ああ」


「最近、毎日行ってるよね」


「……まあ」


「勉強?」


「そんなとこ」


美月は、少し笑った。でも、その目は笑っていない。何かを見抜いているみたいに。


「そっか。頑張ってね」


それだけ言って、美月は自分の教室に戻っていった。

俺は、少しだけ立ち止まった。

美月は、気づいているのだろうか。


翔のことを。

いや、気づいているはずがない。

俺と翔は、図書室以外で会うことはない。

でも、美月の目は、何かを見ていた。


―――


図書室に着くと、翔はまだ来ていなかった。


いつもの席に座って、窓の外を見る。

空が、灰色だ。雨が降りそうな、重たい空。

しばらくして、翔が来た。


「先輩、お待たせしました」


「別に、待ってない」


翔は、少し笑った。それから、向かいの席に座る。

いつもの場所。

でも、今日は何かが違う。


翔の髪が、少し濡れている。


「雨降ってたのか」


「教室出るの遅くなって、渡り廊下まで行かずに中庭を走りました」


翔は、髪を手で払った。水滴が、机の上に落ちる。


「結構、濡れてる」


「大丈夫です」


翔は、笑った。でも、その笑顔が少しだけ寒そうに見えた。


俺は、自分のカバンからタオルを取り出した。

体育の授業用に持っているやつ。


「使えよ」


「……いいんですか」


「別に、あ、使ってないからきれいだよ」


翔が、ゆっくりと手を伸ばす。


タオルを受け取る。

今度は、触れなかった。

でも、翔の指先が、少しだけ震えているのが見えた。

翔は、タオルで髪を拭く。小さな動き。

丁寧に、でもどこか不器用に。

俺は、それを見ていた。


窓の外で、降り始めた雨が、その景色をぼやかす。

静かな音。

図書室の中は、いつもより暗い。

翔が、タオルを返してくれた。


「ありがとうございます」


「ああ」


翔の髪は、まだ少し湿っている。でも、さっきより、楽そうだった。


「先輩」


「ん」


「優しいですね」


心臓が、跳ねる。


「……優しくない」


「優しいですよ」


翔は、そう言い切った。

まるで、それが真実だと信じているみたいに。

俺は、何も言えなかった。


ただ、

雨の音が、静かに響いていた。


―――


その日の帰り道、美月からメッセージが来た。


『ねえ、蒼汰。図書室、楽しい?』

俺は、スマホの画面を見つめた。

返信を考える。

でも、何を書けばいいのかわからない。

しばらくして、また美月からメッセージが来た。

『無理に答えなくていいよ。ただ、蒼汰が楽しそうで、嬉しいなって思っただけ』

楽しそう。

俺が、楽しそうに見えるのか。

自分では、わからない。

でも、もしかしたら。

翔といると、何かが違うのかもしれない。

俺は、返信を打った。

『ありがとう』

それだけ。

美月からは、スタンプが返ってきた。

笑ってる顔のやつ。

俺は、スマホをポケットにしまった。


雨は、まだ降っている。

傘を差して、俺は歩く。

美月の言葉が、頭の中で繰り返される。

「柔らかくなった」

「楽しそう」

それは、翔のせいなのだろうか。


翔といると、何かが変わるのだろうか。

わからない。

でも、否定できない。


―――


次の日、美月は何も聞いてこなかった。

いつも通りに話しかけてくる。いつも通りに笑う。

でも、時々、俺を見る目が優しい。

まるで、わかっているみたいに。

昼休み、美月が小さく言った。


「蒼汰、大事にしなよ」


「何を」


「大事なもの」


それだけ言って、美月は笑った。

俺は、何も返せなかった。

大事なもの。

それが何を指しているのか、わからない。

でも、胸の奥が、熱い。


―――


放課後、図書室に向かう。

廊下を歩きながら、俺は考える。


美月は、気づいている。

俺と翔のこと。

いや、正確には、俺の変化。


翔といることで、俺が変わっていること。

それを、美月は見ている。

でも、何も言わない。

ただ、見守っている。


図書室の扉を開ける。

翔が、もう来ていた。

向かいの席で、窓の外を見ている。

俺が入ってくると、翔が振り向いた。


「先輩」


「ああ」


翔が、笑う。

いつもの笑顔。


でも、今日は、それが少しだけ眩しく見えた。

俺は、自分の席に座った。


窓の外で、風が木の枝を揺らしている。


もう、雨は降っていない。

でも、空は、まだ灰色だ。


「先輩」


「ん」


「今日も、来てくれて嬉しいです」


翔が、そう言った。

俺は、何も返せなかった。

ただ、頷く。

翔は、また笑った。

俺たちは、何も言わない。


変わらずに、ここにいる。


美月の言葉が、頭の中で響く。

「大事にしなよ」

大事なもの。

それが何なのか、まだわからない。

でも、もしかしたら。

それは、ここにあるのかもしれない。


この静かな時間。

翔との距離。


それが、俺にとって、大事なものなのかもしれない。

窓の外で、雲が流れていく。

少しずつ、空が明るくなっていく。


(第三話 了)

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